投稿者: ソラノムコウ
九州の味うまかっちゃんを食す!
コンビニで変わったものを見つけた!
東北じゃ絶対にお見かけしないインスタント袋麺の『うまかっちゃん』である。
うぉぉぉぉ!?マジか!?
袋麺において三本の指に入る美味さと評判だが東北では見る機会はなかった。
地域限定なんて夢でありロマンだ!
例えばどん兵衛なんかは東と西で出汁が違う。
名古屋のソウルヌードルといえばスガキヤだ。
東北にいながら他地方の麺が食べられるなんて素敵じゃないか!!
私はなけなしの金を払って速攻買った。これは買わねばならぬという使命感が働いたからだ。
帰宅し早速調理にかかる。
丼を取り出し麺を開ける。
お湯を沸かし、麺を入れた丼に注ぎラップをかけレンジで500wで二分でチン!
あーっちちちちちゃーっ!!ほぁっちゃーっ!!
丼が激アツい!!
粉末スープと調味油を入れてかき混ぜ、予め準備しておいた刻みネギをふりかけて完成!!
ウホッ!ビジュアルはめちゃ美味そう!
麺は至って普通のインスタント麺。
さてスープを1口…ズズズズ…。
う、美味い!コクがあってあっさりした豚骨味だ。臭みも少なくて美味しいぞ!
王道の袋麺の味だ。これは好きだな!
いくらでも食べられる!
こういうのでいいんだよ!うまかっちゃんうめぇーっ!!
これまた買おうっと♪
入手したのは米山町のセブンイレブンです。
セブンメルシーの向かいの店ね!
哀愁の釜石ラーメン
全線開通した三陸自動車道を走り宮古まで行った帰りに釜石へと立ち寄った。
釜石は私にとっては心の故郷だ。
既に時刻は17時を回っていたために果たしてやっている飲食店があるかどうか…最悪イオンでもいいだろうと街を走る。
釜石のメインストリートである大町を走ると目に付いたのが赤い看板。
『新華園本店』である。
懐かしいなぁ…若い頃によく食べたよ。
元祖釜石ラーメンというとこの店かな。
店の中には地元の方と思しきお客様がいた。
メニューを見ると…結構種類あるなぁ。でもここはオーソドックスにラーメン半チャーハンでいこう!
10分ほどで着丼!
んん~…いい香りだ。王道のあっさりスープに縮れ細麺が釜石ラーメンの特徴。
釜石は漁師町でせっかちが多いから茹で上がりが早い縮れ細麺になったとか。
なるほどこの細麺ならすぐに茹で上がる。
半チャーハンはかなり残念な量…幸楽苑よりも少ない…美味しいけど。
ラーメンは最後まで飽きずに食べられる味わい…。
ラーメンって思い出の味なんだよなぁ…子供の頃に家族で食べた味…。
それが強烈に記憶に残っててそれを追い求めて食べてる気がする。
あと若くて多感な頃にいろいろあって食べた時の感情を呼び戻すためとか。
何を言ってるのかよくわからなくなってきたがラーメンってそういう食べ物の1つであると思うんだ。
美味しかった!また来よう!
【悲報】プラスチックスプーンも有料化へ!?
レジ袋に続きプラスチックスプーンも有料化になるそうです。
小泉環境相「プラスチックスプーンを有料化すれば自分で持ち歩く人が増える!キリッ」
スプーンを持ち歩く人なんている?マイスプーンって…。
自分でスプーンを持ち歩いてるのはユリ・ゲラーくらいのものじゃないの??
働かない議員も問題だけど働く無能も考えものだぞ!?
いや、てか誰か身近で「それはちょっとやめとけwww」って言ってくれる人いないんですかね?
次は割り箸も有料化になりますよ。
何でもかんでも悪にしないでほしい。それらを作って生活している人もいるのだから。
それよりもマイナンバーカードを使ってリサイクルに協力した場合ポイントが貯まって地域振興券とかに交換出来るシステム作った方が良くないか?
つまり、プラスチックゴミ専用のリサイクルボックスを設置して重量に応じてマイナンバーカードにポイントが加算されていくシステムで、入れるゴミに関しては拾ってきたものでも構わない。材質を自動で検出するシステムを作る必要はあるけどそれは誰かが作ってくれると思う。
それが確立されれば地域のプラスチックゴミが無くなる上に地域振興券によって地域の経済活動にも繋がる。100%リサイクルによって火力発電の燃料として使える。
財源はどこから?という問題は後から考えるとして…
重要なのは出てしまうゴミをいかにして不法投棄を少なくすることだと思います!
こういうシステムが出来ればお小遣い稼ぎとしてゴミ拾いとかあるかもしれませんよね?
3.日本が揺れた日
水が無い!
これは深刻だった。
だが、ご近所に生活で使っている井戸があったのでそちらを借りれば良いかと思っていたが夜の内にたくさんの人が訪れ水を汲んでいった。
翌朝には井戸が枯れて水が無くなっていたのだ。
深夜になれば幾分人は減るがひっきりなしに訪れる。
今までこんなに人が訪れる場所ではなかったし、井戸があるなんて知らない人も多かったはず。
とりあえずその日は寒くて体力も回復していなかったので家の中に引きこもっていた。
前の日に購入した豚肉は雪の中に隠していたのだ。
それを石油ストーブの上に置いたフライパンでジリジリと焼いて食べた。
時折揺れはしたが体の疲れはピークに達していてその場で横になった。
目が覚めると外は既に暗くなっていた。結構長い時間寝ていたようだ。
ペットボトルを持ち井戸に向かうがまだ多くの人がいた。
もう1箇所山の湧き水が出ている場所がある。そこは飲める水だが噴出量が少なくてペットボトル一つ貯めるにも時間がかかる。それでも背に腹はかえられぬと向かうと誰もいない。
幾つかペットボトルに汲み家に持ち帰り喉を潤した。
たったコップ一杯の水がこんなにありがたいとは…。
その日はまた横になり体力の回復を待つことにした。
翌日には役場に出かけ情報収集してると給水車が来るという情報を得たが肝心の場所がわからない。役場の人もわからないという。
これにはやや混乱したが多少の水の蓄えがあったので焦らずに済んだ。夜になればまた水を汲みにいける。
だがどこから情報を得たのか夜になるとその湧き水が出ている所に長蛇の列が出来ていた。
ペットボトル一つ汲むにも何時間と待たねばならない。
だが異変が起きていた。肝心の湧き水が濁って泥水になっている。余震で水脈が変わったのかもしれない。
しばらくは水無しの生活だったが頭は洗いたいとシャンプーで泡立て近くの小川で流した所頭の血管がブチ切れるのではないかと思うくらいに冷たかった。
あれから何かをしていれば気持ちも落ち着くだろうと水を高齢者宅に届けるボランティアをしていた。
自分にできることはこんなに小さいことだが高齢者には大変感謝された。
「神様のおかげだァ…神様に感謝せねばぁ」
って水を運んできたのは私なんだけどね…。
それから復興事業に関わり8年目にしてその役割を終えたが復興はまだ終わってはいない。
あれからもう10年…
まだ10年…
そしてこれからも…。
2.日本が揺れた日
酷く疲れていた。
重い体を引きずり散らかった家財道具を部屋の隅に追いやり寝る場所を確保する。
何かあった時に逃げやすいようにリビングで寝ることにした。
3mの津波はどうなったろう?
とにかく今は寝よう…と布団を被るとまた緊急地震速報が鳴った。そして激しく揺れる。家は軋み地面からは不気味な地鳴りが聞こえる。
「う、うわぁ…」
全く寝付けない。とにかく何度も揺れる。何度も緊急地震速報が鳴る。
朝まであと何時間だ?今何時だ?
震えながら寝ようとしたが眠れない。
そして、耳を疑う言葉がラジオから聞こえた。
「荒浜付近で2、300人の遺体が発見されたようです!」
もう日本は終わりだと思った。ただ絶望した。
このまま朝を迎えることが出来るだろうか?
朝起きたらいつもの日常で実はこれは夢でした~なんてならないだろうか?
全く眠れないまま朝を迎えた。
部屋の中にいても息が白くなる。相当な寒さだ。
明るくなって家の点検を行う。基礎や外壁に亀裂が入っている。家屋も斜めになり惨憺たる光景だ。
電気はまだ復旧していない。水道の蛇口を捻ると水も出ない…これはまずいぞ。
そしてこの寒さだ。我が家は全て石油ファンヒーターに替えてしまったため電気がないと暖も取れない。
ラジオからは徐々に被害が明らかになってくる。だが女川方面と連絡が取れないということだ。
情報収集のために役場へと向かうととんでもない人集りが出来ていた。さすがに中に入るのも躊躇う。
役場の人は混乱の中対応していたが未曾有の災害でマニュアルもない中で奮闘していた。
津波被害に遭った区域は立ち入り禁止になっていた。まだ水もひいてないようだ。
後に津波は3mどころではなく6~10m…それ以上の高さにまでなっていた。
情報が錯綜していた。
役場の掲示板には手書きのメモ用紙がたくさん留められていた。どれもが家族の安否や行方の情報提供を募っていた。
その中には知っている人の名前が多数出ていた。
時折繰り返される余震に震えながら食料を確保するためにスーパーに向かうが人集りが出来ていて店舗の中まで進めない状況だ。
何分昨夜から何も食べてないのでここで体力を消耗する訳にはいかないだろう。夕方になれば落ち着くはずだと一旦家に戻り後片付けをすることにした。
電気も無い水も出ないとはこんなに不安になるものかと痛感した。
幸いながらトイレは簡易水洗だったので風呂の残り湯を使えば流すことが出来た。
ストーブは近所の方が石油ストーブを持っていたので一機借りることが出来た。
とりあえず上に鍋でも設置すれば簡単な料理をすることが可能だ。
午後に再びスーパーに向かうが相変わらずの人込みだ。
ここまで来たならと我慢して並び店舗で買い物を済ます。多少タンスに現金を置いてたので重宝した。
この状況ではクレジットカードも使えない。
スーパーではカップ麺は軒並み品切れ。
あとウイダーinゼリーのような部類も無い。あるのは野菜と多少の肉だけだ。
肉に関しては停電で保存が効かないことから敬遠したのだろう。
とりあえずカゴに肉を放り込む。今はスタミナが必要だ。
飲料水も全滅していた。ペットボトル関係は全てない。
菓子は多少残っていたので喉が渇くだろうが少しだけ買っておいた。
レジに長蛇の列でなかなか進まなかった。なによりも暗い中店員さんが電卓を叩き会計していたのだ。
これでは進まないと私はバッテリーが残り少ない携帯電話を取り出し店員さんの手元を照らした。
「本当にありがとうございます!貴重な電気を·····」
そしてその中に息子が帰ってこないと嘆いている女性がいた。
情報では仙石線は津波の影響を受けて電車ごと流されたことを知っていた。
女性の息子はその電車に乗っていたというのだ。
偶然にもその電車に乗り合わせたという知り合いの男性がいた。
「ああ、その電車に乗っていた人達なら全員避難して無事なはずだよ。今は近くの避難所にいるんじゃないかな?」
と聞いた途端に女性は泣き崩れた。
「ありがとうございます!ありがとうございます!!」
嗚咽を漏らしながら何度も男性にお礼を言う。
家族の無事を知り安心したのだろう。
誰も不安に晒され押し潰されそうな状況にいたのだ。
携帯の画面を見るとまだ電波は繋がってないらしい。
また不安な夜を迎えることになる。
続く
日本が揺れた日
2011年。3月11日。午後2時46分。
マグニチュード9.0。最大震度7を記録する東日本大震災発生。
その日私は仙台で仕事をしていた。
脚立の上で作業をしていたら緊急地震速報が鳴った。
この時はまだ緊急地震速報が導入されて間もない頃だったので大した事ないだろうと思っていた。
ところが地鳴りと共に激しく揺れ始めたために近くで作業していた人に逃げるように叫んだら背中を丸めて逃げ出していたところだった。
「早っ!?」
と私も脚立から飛び降り建物から逃げ出した直後にドーン!と隕石でも落ちて来たような衝撃と共に今まで体験したことが無い凄まじい横揺れが襲ってきた。
立っていられない程の揺れだ。
建物を見るとRC造にも関わらず豆腐のように歪んで揺れている。
近隣の家電量販店のガラスが割れて崩れる音がし煙が上がり始めた。
ただならぬことが起きたのだ。
すぐに速報が入り携帯の画面を見ると目を疑った。
──高さ3mの津波に注意
高さ3m!?たった1mの津波でも女川は冠水したのだ。3mも来たら無事では済まない。
「3mがぁ…おらい(自分の家)もうダメだなやぁ…」
石巻に住んでいる職人さんが項垂れていた。
それから混乱のまま各々帰宅することになった。
既に道路は渋滞が発生しており街は停電して信号機も機能していなかった。
誰もが同じ思いだったと思う。
早く家に帰って家族の無事を確認したいと。
渋滞にも関わらずそれぞれが順番を譲り信号機が無くても適度に流れていた。
直感的に海沿いや川沿いは危険だと思い、かなり遠回りして山沿いを走っていった。
この日の帰りに給油しようと思っていたので車の燃料は残り僅かしかない。
たどり着けるのか?
信号機も無い一本道の山道にも関わらず長い車列が出来ていた。
車のラジオから信じられない報道がされていた。仙台空港に津波が押し寄せたのだ。
「車が…津波に押し流されていきます!恐ろしい…光景です!」
アナウンサーの僅かに震えながらも冷静に伝えようとする悲痛な叫びが異常事態を伝えるには十分だった。
隣で携帯のワンセグを観ていた同僚が呟いた。
「ああ…もうダメだ…」
その日、3月にしては異様に気温が低かった。とても寒い…小雪もちらついてきた。風も冷たい。
携帯の電池を見ると残り僅かしかない…充電をしておくべきだったと後悔しながらも温存のために電源を切った。どうせ通信も途切れていたのだ。
「おい!やばいぞ!」
同僚が指差した先の橋の継ぎ目が20~30cm程の段差が出来ている。地盤がズレたのだ。
登れるか?
ゆっくり進み若干擦りながらも段差を乗り越えて無事に通過。
脇の駐車場等は地割れどころの騒ぎじゃない。まるでゴジラでも歩いたあとのようにアスファルトが隆起しめくれあがっていた。
会社の駐車場に到着すると車がズレてあさっての方向を向いていた。これだけ揺れたのだ。
車に乗り込みいつもの通勤路を走るが渋滞で思うように進まない。私の車にも燃料は僅かしか入っていない。当然ながらガソリンスタンドも閉まっている。
日が傾き山の影になると一気に暗くなった。
渋滞を回避するために脇道に迂回していくとヘッドライトの照らされた先に水が見えた。道路が冠水している。津波が到達したのだ。
「え?ここまで水来る!?」
後にも先にもあの道路が冠水してるのを見たことがなかった。海からは多少離れてはいるもののその距離を超えて津波が来たのだ。
フルブレーキかけるも間に合わなくて前輪が水の中へ飛び込んだがすぐに後退して事なきを得た。
諦めて再び渋滞の列に加わった。
家に着いたのは陽が完全に落ちて暗くなった頃。
本当に暗い…こんなに暗くなるものか。自分の手すら見えない程に暗い。
真っ暗な家の玄関を開けると家財道具が散らかっている。
足の踏み場もない。
リビングに入ると親父殿が猫を抱えて座っていた。
「おお、無事だったか!?」
電話も繋がらずに不安だったが無事を確認して安心した。
だが本当の戦いはこれからだったのだ。
続く
スーパープラチナム日曜日は気仙沼の旅!
スーパープラチナム日曜日を迎えた私はすこぶる上機嫌で目を覚ました。
なんて言ったって週一しか休めない超ド底辺労働者にとって日曜日は何事にも変えがたい大イベントだからだ。
まず日曜日の始まりは朝のランニングから始まる。
私は住友生命のバイタリティをやっているので保険料を安くするために一日の歩数を稼がねばならない。
これについては多くの不満があるがとりあえず続けている。
ランニングするにあたって風光明媚な松島へと向かう。
朝日を浴びながら景色を楽しみ走れば健康にもいい。
とても良い景色と朝の澄んだ新鮮な空気。日曜日ともなれば車の排気ガスも少ない。
砂浜に車を停めて林道をランニング。とても気持ちが良い…のだが、どうも過度な運動が祟り坐骨神経痛を発症してしまい微妙なフォームで走っている。
多分動かないよりは動いた方がいいかもしれないと運動し続けているが悪化しているような気がする…。
何よりも歩数を稼がねばならないのだ。
バイタリティは最高12000歩で最高ポイントの60ポイントを得ることが出来る。8000歩以下は0だ。
ゴールドランクになるには24000ポイントを貯めなければならない。
60×365=21900…ん?
1年間毎日12000歩歩いても足んなくね???
でも現実問題として社会人が仕事終えてから毎日1時間~2時間歩くってなかなか無いよなぁ…。
ランニングを終えた後は定番となりつつある
『支那そばや石巻』さんで早めのランチ。
塩かけラーメン大盛り
いやぁ、このマイルドな塩スープは絶品。そしてストレート細麺がベストマッチ!
舌に絡まる複雑な旨みがたまらないね。
店主さんから味玉をいただきました。
スープまで完飲し朝のランニングの成果は帳消しになりましたね。
店を出て空を眺めるとどこまでも青い空。雲一つない。
これなら気仙沼に行ってみよう!
三陸自動車道が宮城県では全線開通したのだ。
石巻港ICから乗り込み一路気仙沼へ。
さすがに日曜日だ。いつもよりも混んでいる。ましてや全線開通してからの初めての日曜日。
こりゃあ、法定速度マンもいるだろうなぁ。
長旅になるのでここで思いっきって100kmまで加速。
実は三陸自動車道は過去最高速度70km時代がありましてその癖で80kmくらいでしか走ってないのですよ。
ギュンギュン加速していくが80kmくらいで頭打ちに…あれれ?
アルトCはターボ車なんだけどロープレッシャーターボなので高回転はスッカスカなんですよね。
日常使いに特化してるので低回転から中回転域はフラットだが力強い加速をするけど高速は苦手。
ようやく100kmまで加速すると車体がフワフワして気持ちが悪い。三陸自動車道は結構路面状況が良くない。橋の継ぎ目付近に穴が空いてて脳天まで突き抜けるような衝撃と共にCDが音飛びしたのだ。信じられん…。
その後は三滝堂の道の駅に寄ろうとしたら超絶渋滞…道の駅内の駐車場で転回しそのまま気仙沼まで走ることにした。
三陸自動車道は面白い。アップダウンもあり、海が見えてトンネルもある。目まぐるしく景色が変わる。
退屈な東北自動車道とはまるで違う。東北自動車道は山しかない。
新しく出来た気仙沼の橋に到達。凄い橋だ!
残念ながらドラレコ未装着のために写真はありませんが…とてもいい橋だ。
しかしだね…この橋を渡りきるのに10分もかかった…物凄い渋滞!!
信じられるか?橋の真ん中辺りで停車or減速して写真撮ってんだぜ?しかもデジカメやらスマホやらだ。そりゃあ混むわ!
私もスマホで撮影すれば良かったのかな?とも思ったがハイドラでさえ運転中は画面を見ない。
なによりも自分自身を全く信用していないために万が一事故を起こす可能性もあるので辞めました。
素直に通り過ぎるが吉だなと。
どうせならこのまま宮古まで行ってみようと気仙沼を通過しました。反対車線も同じように橋の中心部を起点に大渋滞でした…ここから帰るよりも宮古を観光してから帰った方がストレスが少ないと思いましたね。
この先にあるトンネルも反対車線が大渋滞になってまして排気ガスがとんでもない事になってました。
なんていうか…サイレントヒルみたいになってましたね…。
結局宮古までは3時間で到着。
かつては下道6時間かかったのが約半分!
渋滞して3時間だから通常ならば2時間半前後で到着するのだ。
凄いなぁ…群馬に行くよりも遠かった宮古がこんなに近くなるなんて信じられない。
宮古に到達した時点で17時を回っていたために近くの道の駅で缶コーヒーを購入して帰路についた。
帰りはスイスイと走りライトアップされた気仙沼の橋を渡り。
おっと忘れた!釜石でラーメンを食べたのだった!
それはまた別の記事で。
そういうわけで私のスーパープラチナム日曜日は移動距離500キロのとんでもない旅になったのでした。
支那そばや石巻
支那そばや石巻
ラーメンの鬼と呼ばれた佐野実の直系の弟子が営む人気ラーメン屋さん。
あっさり中華そばの系譜だがそのスープは手間をかけて作られ複雑な旨味と香りを醸し出す。
麺はそれに合わせて製麺された細麺ストレート。
全粒粉が爽快なのどごしを演出してくれると共に小麦の芳醇な味わいを楽しむことが出来る。
週替わりで醤油、塩味が入れ替わる。
開店前から並ぶ人がいるほどの人気店だが回転が早いためにそんなに待ち時間は発生しない。
現在は初代店主が引退し、若い二代目店主がその味を引き継ぎ元気に営業している。テキパキした仕事ぶりは一見の価値がある。
私は『かけラーメン』が大好きでシンプルに麺の味わいとスープの旨味を堪能している。濃厚な味わいの味たまとメンマも美味しい。
慢性的に千円札が不足しているようなので千円札を予め準備しておくと良いかも…。
個人的には県内三本指に入るラーメン屋だと思っている。駐車場も未舗装の部分はあるものの広くて駐車しやすい。しかし、貸金のATNがあるあたりは車止めの位置が微妙で停め方がわからずに変な間隔が空きやすい。
営業日、醤油、塩の切り替えは公式Twitterより
鹽竈神社の階段に立ち向かえ!
日曜日に支那そばや石巻で昼食を済ませた後に塩竈に向かった。
本当は石巻のあゆみの公園でワークアウトをしたかったのだが大変な人出で駐車場も満車だったので諦めた。
そこで思い出したのが塩竈だ。
(そういえばまだ初詣してなかったな…)
とふと思い立ったので鹽竈(しおがま)神社へと向かった。
だが普通に神社に向かったのでは面白くない。北浜から歩くことにした。
北浜は階段の街だ。至る所に階段があって複雑な道を構成している。
建物は見えているのだが行き方がわからないなんてことはざらにある。
体を慣らすためにいくつもの階段を上ることにした。
だが気を付けなければならないのは不用意に上がっていくと他人様のお庭に出てしまうこともあるので注意しなければならないのだ。
なんの用事もないのに私有地に立ち入るのは明らかに不審者だ。
そういうわけで注意しながら歩く。
面白そうな階段を発見。手すりがうねうねしてて面白いな!
段に合わせているわけか。
これは良いような悪いような…なんか手すりとしては使いづらいような気がする。
いくつかの階段を利用して迷路のように入り組んだ狭い道を歩く。
この高低差が意外と膝に来る。上る時は一気に下る時はゆっくりと。
全く舗装されてない裏道や
雑な作りの階段を上っていく。
階段の途中に鳥居があったりとなかなかの異世界チックな景色が…。
宮町に抜けると重なる建物が。どうやってあそこに行くのだろう?と歩いていくワクワク感は堪らない。
これまた知らない道。初めて来た。
古い階段や古い建物の間を抜けていく。
急勾配で狭い道は面白い。転んでしないように慎重に歩いていく。
細路地からメインの道路に出て丹六園の脇を通る。これは文化財として指定されている。
『志ほがま』という銘菓を作っているのだが実は食べたことが無い…機会があれば食べてみたいものだ。
さて、鹽竈神社に到着したがここまで結構歩いてきた。体力も消耗している。
目の前には長い階段が存在していた。なんというラスボス感…。
私は毎日毎日10km近く走って鍛えてきた。
一分もかからず上りきれるのではないか?
香川の金比羅山だって休憩無しで上りきれたのだ。それもインフルエンザを発症しつつある状態で!
体も温まっている。
呼吸を整え地面を蹴りスタートした。
ストライドを大きくして反動をつけ体を前へ前へと繰り出す。
たちまち中心部まで到達。まだ30秒もかかってないはずだ。
しかし、まだいけると思っていたのだが急に体が重くなり動かなくなった。膝を支えないと上がっていけない…こんなはずじゃ…。
残り三分の一はおじいちゃんのようになってゆっくり上るはめになってしまった。
体力を消耗し過ぎていた事もあるが坐骨神経痛もあったのでベストコンディションではなかった。それにしたってもっと上へ行けた気がする。
こんなヤワだったの?と愕然とした。
結局タイムは1分30秒…。
この時私は思った。
今年は30秒で上りきれるくらいになりたいと。
もっと頑張ろう…。
定義山の三角油揚げを食べに行こう!
宮城県民なら誰もが行ったことがあるあの場所へと足を運ぶことにした。
仙台西道路を走り向かったのは定義山(じょうぎさん)である。
ここは有名で宮城県民はある目的のために遥々遠くからでも訪れるのである。
それは
『三角油揚げ』です。
分厚い三角の形した油揚げである。何の変哲もない油揚げと思いきや揚げたて熱々が食べられるのだから大人気で日曜日ともなると店の前に長蛇の列が出来るほど。
西方寺というお寺が奥にあるのだが参拝のついでに油揚げを食べるのではなく油揚げを食べるついでに参拝するのが常な気がする…。
私もその1人だ。
この辺は雪が少ない宮城県でも豪雪地帯で1mぐらい雪が積もっていたと思う。こなり解けていたが片隅には山のように雪が積まれていた。
駐車場に車を停めて颯爽と向かうのは
『定義とうふ店』
ここで三角油揚げを買うことが出来る。
ソーシャルディスタンスで並んでいたらおばちゃん2人組に割り込まれてしまった…余りにも空間を取りすぎたかもしれない…。でもさほど並ぶ訳でもないしことを荒立てることもあるまいと大人しく並んで購入。
外の年季の入った汚いテーブルに置かれている七味唐辛子と醤油をかけて食べるのだ。
実はこの醤油は油揚げ専用醤油で特別に油揚げに合うように作られたものだ。
たからお土産用を買って家で食べるとちょっと違うと思うのはこのかけ醤油がないからだ。
家のキッコーマンの醤油では現地で食べるような旨味は得られないのだ。
ぜひ一本買うことをおすすめするが、今度は油揚げ以外にはなかなかマッチングしないのだ。独特の甘みがあるせいなのか目玉焼きにも合わない気がする…。
さて、揚げたてサクサクをいただきましょう。
余談だが私はこの揚げたて熱々を食べると高確率で口の中の上の方が荒れてしまうのだ。
なぜかはわからない…。多分体質だろう。でも美味しいから食べるのだ。
表面はサクサクしてて噛むと中からジュワッと熱い汁が出てくる。美味しい!
この現地で食べるのが堪らないね~。
飲み物は何にしようかな?
たちまち完食すると近くのやきめし屋に並ぶ。これまた定義山に来たら外せないものだ。
通常のやきめしとニンニク味噌がある。どれにしようかなぁ…と悩んでソーシャルディスタンスで並んでいると先程のおばちゃん2人組がまたもや私の前に割り込んだではないか!?
こんのクソBBA!!とか思ったがやきめしは速攻諦めた…なんかもう面倒くさくなってしまった。
立派な山門があり、結構参拝している方が多い。
道路向かいには五重の塔があったりと文化的なものに触れることが出来る。
なんか良いなぁ…この時間…。毎日毎日せかせかと労働していると雲が流れるのを眺める時間でさえ愛おしく感じてしまう。
普段はどれだけ視野を狭くして生きているかって話。
帰りは大倉ダムを観光して帰路につく。
いやぁ、それにしても高い…足が竦んでしまうね。
スーパープラチナプレミアムダイヤモンド日曜日は支那そばやで始まるのだ!
今日はスーパープラチナプレミアムダイヤモンド日曜日である。
私はド底辺労働者だ。日曜日しか休みがない。その日曜日すら無くなって2週3週連勤になることもざらにある。
手当も付かない名ばかり管理を任され何十年と突っ走ってきたが精神は壊れ体もボロボロ…おまけに大きくなったのは会社だけで私自身は…。
そんなわけで日曜日は大いに満喫するのだ。何人たりとも私の日曜日を邪魔することは許されない。
それが例え聖帝サウザーだとしても目の前に現れたならばボコボコにしてやるだろう。
朝起きてまずは超面倒くさい確定申告書類の整理を始める。
いつになったらAIが勝手にやってくれる時代になるのだ。
家の中を右往左往しながら書類をかき集めて作成準備に取りかかる。
最高の日曜日がこんな雑務に追われるなんて…平日にやればいいじゃないかなんて思われる方もいらっしゃるかもしれないが私の最低労働拘束時間は12時間だ。そこからさらに職場が遠方になれば15時間超えもある。
家に帰って食事入浴したら寝る時間である。とてもやる暇はない。
それどころか私は住友生命のバイタリティを契約している。
決められた歩数に応じてポイントが貯まり保険料が安くなるという一見お得な保険に思えるが歩かないと保険料が割増になってしまうのだ。
しかもだ。これにはトラップがあってクソゴミみたいなアプリを入れて月額880円も払うのだがこいつは単体で歩数をカウントしない。他に歩数計アプリをインストールしなければならないのだ。
その他の歩数計アプリはなかなか歩数をカウントしないのだ。
スマホのウィジェット歩数計の約半分しかカウントしない…。
なので目標歩数に達するには家に帰ってから1時間40分歩くなり走らねばならないのだ。
こんな無理ゲーな生命保険あるかって話だ。
それに万が一怪我して入院したら保険料が上がるじゃないか?
住友生命は他の保険会社に比べて割高なのでこれを機に考えてしまうな。
そんなイライラを抱えながら車を走らせ向かったのは
『支那そばや石巻』さんである。
もうMPVでしょう!昨年12月から毎週訪れているのだ。
注文したのはいつもの『かけラーメン』である。
でも今日はこれにメンマをトッピングしてみた。
店は開店と同時に満席。これは嬉しいね。閑散としているよりも安心感がある。
二代目店主は手際よくラーメンを作るので着丼までが早い!
トッピングは別皿でくれる気の遣いよう。
「これどうぞ!」
二代目店主から味玉のサービスが!これはありがとうございます。本当に嬉しい。
ここの味玉は濃厚で美味しいのだ。
まずは何も入れない状態のスープを一口。
うむ、今日も最高の出来映え。口の中に流し入れた瞬間に多様な香りが鼻腔の中に広がる。
麺は上げやすい細麺ストレート。
これは佐野流と呼ばれる製麺法で細麺ながらも絶妙にスープを絡ませて抜群の喉越しを実現している。
それからメンマを投入。結構な量だ。
まずはメンマを一口。歯応えはしっかりして下味も濃いめに付いている。
だがメンマを入れた事でスープがやや甘味を帯びてしまった。味はより一層濃くなる。
なるほど。こんなにも具の影響を受けてしまうのだ。
チャーシューからは脂が出てくる。
おそらくは全て入って完成された味なのだろうが私はやはりシンプルなかけラーメンが好きだ。
あのスープの前ではどんな具材も脇役でしかない。その自己主張が強ければ強いほど排除したくなってしまう。
メンマは決して不味いわけではない。このまま酒のアテでいただきたい程にしっかりした味わいがある。
だからこそ繊細なスープの味を鈍らせてしまう。
主役は二人も要らないのだ。
ここまで来るとネギも抜いてしまおうかと思ってしまうくらいだが私はネギが好きなので難しいところだ。
あっという間に完食完飲!!
丼をテーブルに置くと思わず膝を叩いた。
最高の一杯だった。
これを文字で表すのは今の私には難しい。
だがこれはまだ私がまだガキだった頃に抱いていた佐野実氏との軋轢が埋まった証だろう。
テレビで観た佐野実氏はおっかないおじさんだった。弟子を怒鳴りつけスープをひっくり返す。そんな酷いことをする奴が作るラーメンなんて美味しいわけがないと思っていたのだ。
私がまだ若い頃に石巻に支那そばやがオープンしたと聞いて「どれ!偉そうなこと言ってる奴のラーメンを食ってやる!」と鼻息を荒くしていた。
当時、私は熱いものを食べると鼻血が出るという特異な体質だったのだが、その日もやはり熱いラーメンを啜ったと同時に鼻血が出た。みるみるスープが赤くなる。これはまずいと鼻にティッシュをあてがいながらも食べたが完食ならずに店を後にした。
悔しかった…味も香りもわからなかった。なぜ鼻血が出るのかはわからん。
「お前にはまだ俺のラーメンを食うのは早い!帰れ!」と佐野実氏に言われた気がした。
あれから三度食べたが三度とも鼻血によって断念した。
結局諦めてあれから長い年月が過ぎた。
あのまま忘却の彼方に追いやられるのだろうと思っていたがたまたま観たニュースで佐野実氏の訃報が伝えられた。
「そっか…佐野さん亡くなったか…」
あくまで私はその程度の感情しかなかった。
その時には既に支那そばや石巻は店主の体調不良から縮小営業の形をとっており日曜日は定休日となったことからますます食べる機会は奪われていった。
あのまま食べる事無く私の記憶の中では鼻血味のラーメンとしか思い出せなくなっていた。
だが私が初めてテレビで観たあの頃の佐野実氏と同じ年齢に達してからわかったのだ。
仕事に対する気持ちの入れよう、心構え、こだわりがわかったのだ。
それは生半可なものでは到底到達出来ない高みだったのだ。
いつしか私の中で佐野実氏の存在が大きくなっていった。
そしてふと棚ぼた的に得た休暇が平日でたまたま営業日だったので数年ぶりに行ってみたのだ。
その時先代店主がラーメンを作っている脇で眺めている青年がいた。
まさに後の二代目店主である。
期待を膨らませつつ着丼を待つ。厨房を見下ろすように飾られた佐野実氏の写真が妙な圧迫感を与えていた。
相変わらず怖いおじさんである。
そして配膳されたラーメンはあの頃のままだった。
スープを一口飲むと初めてその味がわかったのだ。
もうその時は熱いものを食べると鼻血が出る体質は改善されていた。
人間は何事も初めての体験は感動するものだ。大人になると初めて体験する機会が少なくなる。そして新しい挑戦を拒むようになる。これは過去の失敗経験が大きな要因かもしれない。だから人生が退屈に感じてしまうのかもしれない。
麺を啜り、喉に流し込むと空っぽだった体の中に血液が一気に流れ出たのではないかと思うくらいに痺れた。
これは美味い!なんて美味しいのだろう…….。
汚れでややくすんでしまった佐野実氏の写真を見上げる。
「どうだ!俺のラーメンは美味いだろう!」
そう言ってる気がしたのだ。
私はこのラーメンが美味しいと思うまでにどれほど長い年月を費やしたのだろうか。
感動に打ち震え店を出た。
後にあの青年が二代目店主となり店は通常営業となり復活したのだ。
あれから佐野実氏のラーメンは受け継がれ多くの人達を幸せにしている。
佐野実氏はテレビに出てラーメンの鬼というキャラクターを演じたがためにアンチが増えて執拗な嫌がらせもあったと聞く。
それで精神的にも肉体的にも大きな負担があったと思う。
その苦労は私は想像し難いが佐野実氏が今のラーメン業界に与えた影響は大きい。
たかがラーメンをされどラーメンに昇華させ、その理想のラーメンを作るために人生を捧げた佐野実氏。
叶わぬ願いだが、今の時代に佐野実氏が生きていたら百花繚乱な今のラーメン業界をどんなに喜んだことだろうか。きっといろいろ食べ歩いてもっと美味しいラーメンを作ろうと意気込んだに違いない。
理想の追究に対して彼の人生はあまりにも短過ぎた気がするのだ。
だがその理想は弟子に受け継がれ、そのまた弟子に受け継がれて味を継承していく。
ラーメン店経営は気力と体力が必要だ。
二代目店主さんには体に気を付けて頑張ってもらいたい。
また食べに行こう!