悲惨な大震災から始まった2024年。
私は昨年で25年間従事した職場を退職しました。
長年痛めていた右肘の状態が芳しくなかったのと、交通事故での後遺症に悩まされていました。
それによって通常の業務をこなすのが困難になり、每日がとても辛かったこと。
私の仕事は遠くの現場まで移動する負担も大きいものでした。(片道二時間は当たり前)
ずっとずっと辞めたいと思っていたものの、貯金もなかった上に高齢者を抱えていると無収入期間はとても恐ろしいものです。
しかし、過重な責任と業務ら肉体的な限界を超えて心が壊れていくのを感じていました。
顕著なのが物忘れ。
◇聞いたことをすぐに忘れてしまう。
これは重要な情報だった場合にうまく伝達できないという恐ろしさがありました。
数分前に置いた物でさえ、どこに置いたか忘れてしまう。
何かを取りに立ったら忘れてしまう。
そういう事が日常茶飯事に起きるようになっていました。
◇文章が書けない
以前は頻繁にブログを更新していたのにある日突然、文章が書けなくなりました。
編集画面を開いても何も思い浮かばない。
題材はあっても編集するまでエネルギーが確保できない状態が続いていました。
まるでピースの合わないジグソーパズルをやっている感覚に陥ってしまったのです。
絶対に合うはずないのに自分の中では
『絶対に組み合わせなきゃ!』
という強迫観念にとらわれてしまい何も書けなくなってしまいました。
◇将来に対する不安
人生は折り返し地点をとっくに過ぎてしまいました。
初老の年齢に達したわけですが、ここまで貯金は無し。結婚無し。当然子供無し。
とないないづくしではありますが、働いていたにも関わらず老後資金が無いというのは大きな不安がありました。
国民年金ですら未納期間もあり、満足な年金は貰えないでしょう。
当然、勤めていた事業者は個人事業所だったために厚生年金など社会保険は一切無し。
有給休暇なんてあるわけないし、ボーナスもない。
休みは日曜日オンリーで、現場によってはその休みすら無くなってしまう。
年間休日は53日程度。
一日12時間から15時間は拘束されてしまいます。
人によってはそれが普通と思うかもしれません。
ですが、子供の頃からストレス解消の仕方が下手だった私はいろんなものをずっと抱えてしまい壊れていくのを感じながら、まともな自分を演じていきました。
このままここで働いていたら将来は生きていけない!と思い、インボイス制度を理由にして退職しました。
結局は人生の時間を浪費しただけで何も手に入れる事はできませんでした…。
25年間…何だったんだろ?
◇少しずつ“私”を取り戻す
全てのしがらみから解放されてゼロになりました。
25年間費やした時間で得たものは何も無かったということです。
仕事が切れれば、『調子はどうだ?』とか近況を気にしてくれる人もいない。
これは私の人望の薄さでもあるのですが、元より友達を作ることが下手くそだった私だから当然の結果です。
人との距離感…?
が理解できなくて、細々と陰日向で生きる道を選んでしまった。
でも休んでいる内に気持ちも少しずつ人間らしくなってきているような気がします。
しかし、そうは問屋が卸しません。
高齢になる親父殿が五十肩?を発症してしまい要介護となりました。
普段から運動不足と睡眠に対する意識の低さからか、ある日と突然発症しました。
ベッドでは寝れないからとリビングでストーブを炊きっぱなしでソファーで寝る日々。
ほぼ24時間炊きっぱなしだから灯油がギュンギュン減っていく…。
だが節約もへったくれもない。灯油代は私が負担しているのだから…。
休養中に確保していた僅かな貯金もみるみる間に目減りしていく…。
おまけに家で休養しようにも親父殿の
「うあぁ…いでぇ~いでぇ~…」という呻き声を四六時中聞かねばならない。
コップ一つ取るにも呼ばれる、服を着せてやり脱がせてやり…毎日自分のための時間は取れない。
こんなはずではなかったのに…と思いながらも今まで自分のために金も時間も使えてきたか?というとそうでもない。
抑圧された少年時代を送り、社会人になったらなったで自由に給料を使えるわけではなかった。
その殆どが生活費に消え、好きなことに使える余裕などなかった。
結局はこの男に一生振り回されるのかもしれないという諦めの中で失望に近い気持ちで生活をしております。
ああ、また手を貸さなきゃならないのか。
──そんな日々です。
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