第6章: 仲間との溝
朝の冷気が下町を包む中、黒島樹は港南水産の倉庫に足を踏み入れていた。六日目の仕事。昨夜見た赤黒い染みが頭から離れず、眠りは浅かった。港の奥の倉庫、機械音、腐臭――それらが現実なのか幻覚なのか、もはや区別がつかない。借金取りからの脅しも止まず、携帯には「今夜中だ」というメッセージが刻まれている。逃げ場のない現実が、樹の精神を腐らせていくようだった。
倉庫の中はいつも通り冷たく、労働者たちの無言の動きが続く。樹はコンテナを運びながら、昨夜の記憶を反芻していた。あの赤黒い液体は魚の血ではない。確信はないが、そう信じたくなかった。知りたい衝動と、知るのが怖い恐怖がせめぎ合い、胸を締め付ける。
昼前、樹は我慢しきれなくなった。荷物の正体を知るため、同僚に問いただす決意を固める。近くで働くあの外国人労働者――深い皺が刻まれた男に近づき、低い声で切り出した。
「なあ、あのコンテナ……何が入ってるんだ?」
男は手を止め、樹をじっと見つめた。怯えと苛立ちが混じった目だ。
「知らない。言ったろ。」
「嘘だろ。港の奥で何かやってるの、知ってるだろ?」
「黙れ。余計なこと言うな。」
男の声に怒りが滲む。だが、樹は引かなかった。赤黒い染みが頭を焼き、抑えきれなくなっていた。
「魚じゃない。あの重さ、匂い、液体――おかしいだろ!」
その声が倉庫に響き、他の労働者が一瞬手を止めた。空気が凍りつき、静寂が広がる。男は顔を歪め、樹に詰め寄った。
「お前、馬鹿か? ここで生きてたいなら、黙って運べ!」
言い争いがエスカレートし、二人の間に緊張が走る。すると、佐藤の鋭い声が割って入った。
「何だ、騒いでるのは?」
樹と男は口を閉ざし、佐藤の冷たい視線に晒される。男が先に目を逸らし、作業に戻った。佐藤は樹を睨み、低く唸る。
「仕事がしたいなら、黙ってやれ。次はないぞ。」
樹は唇を噛み、コンテナに手を伸ばした。だが、同僚たちの視線が背中に刺さり、孤立感が胸を締め付けた。
夕方、仕事を終え、樹は港の近くの路地を歩いていた。携帯が震え、借金取りからの着信が鳴り響く。出る気力もなく、ただ足を止めると、近くの小さな居酒屋から声が聞こえてきた。覗くと、町の住人らしい老人が独り酒を飲んでいる。目が合うと、老人は手招きした。
「お前、港南水産の新入りか? 顔が死んでるぞ。」
「……疲れてるだけです。」
「だろうな。あそこはなぁ、生きるためなら見ないふりが必要な場所だ。」
老人は笑い、焼酎を煽る。樹は思わず口を開いた。
「見ないふりって……何を?」
「噂、聞いてんだろ? 人間を解体して海に捨てるってやつ。あれ、真偽は知らねえ。でもな、ここじゃみんな何か抱えて生きてる。詮索すりゃ、自分が腐るだけだ。」
老人の言葉が胸に突き刺さる。樹は黙って立ち去ったが、頭の中でその言葉が反響していた。
夜、寮に戻った樹はベッドに倒れ込んだ。コンテナを運ぶ作業中、手袋に赤黒い液体が染みつき、掌に冷たさが残っている。携帯が再び震え、借金取りの声が響く。
「今夜だ、黒島。金がなきゃお前が終わりだ。」
電話を切り、樹は天井を見つめた。同僚との衝突、老人の言葉、赤黒い染み――すべてが頭の中で渦を巻く。
「見ないふり……でも、見なきゃ腐るのは俺だ。」
波の音が遠くから聞こえ、腐臭が部屋に漂うような錯覚に襲われた。目を閉じても、闇の中で赤黒い染みが浮かび上がり続けていた。