魚腐 第7章『監視と腐敗』

第7章: 監視と腐敗

朝の薄暗い空の下、黒島樹は港南水産の倉庫へと向かっていた。七日目の仕事。昨夜の同僚との衝突が頭に残り、孤立感が胸を締め付けている。町の老人の言葉――「詮索すりゃ自分が腐る」――が耳にこびりつき、眠れぬ夜を過ごした。携帯には借金取りからの着信が40件を超え、「今夜だ」という脅しが現実の重さとなってのしかかっていた。逃げ場はない。知るか、腐るか、二択しかない。

倉庫に着くと、冷気が肌を刺す。労働者たちは無言で動き、樹はコンテナに手を伸ばした。冷たいプラスチックが掌に張り付き、腐臭が鼻を突く。赤黒い染みが脳裏を焼き、頭を振っても消えない。昨日の言い争いが佐藤の耳に入ったのか、今日はいつも以上に鋭い視線が背中に刺さっていた。

昼前、樹は作業中、コンテナの隙間に目を凝らした。赤黒い液体が滲み、薄暗い照明に照らされて鈍く光る。魚じゃない。あれは何か別のものだ。確信が欲しい衝動に駆られ、手袋を外してコンテナの蓋に触れようとした瞬間、背後から低い声が響いた。

「何やってんだ?」

振り返ると、佐藤が立っていた。冷たい目が樹を貫き、心臓が跳ね上がる。

「いや……ただ、匂いが気になって……」

「気にするな。触るな。お前、昨日も騒いでたらしいな?」

佐藤の声に怒りが滲む。樹は言葉を飲み込み、作業に戻った。だが、その日から佐藤の監視が明らかになった。倉庫のどこにいても、鋭い視線が離れない。労働者たちも樹を避けるようになり、孤立感がさらに深まった。

夕方、仕事を終え、樹は港の裏道を歩いていた。携帯が震え、借金取りからのメッセージが届く。「今夜9時、港の東側だ。金がなきゃ終わりだ。」 胃が締め付けられ、足が止まる。金を用意する当てはない。だが、立ち尽くしていると、遠くからトラックのエンジン音が聞こえてきた。港の奥へと向かう、あのトラックだ。

衝動に駆られ、樹は物陰に身を隠し、トラックを追った。錆びた鉄柵を抜け、腐臭が漂う路地を進む。やがて、港の奥の倉庫にたどり着く。昨夜と同じ場所だ。トラックが停まり、男たちがコンテナを運び出す。樹は息を殺し、目を凝らした。

倉庫の扉が開き、薄暗い光が漏れる。中から機械音と、何かを叩く鈍い響きが聞こえてくる。男の一人がコンテナを落とし、蓋がずれて中身が一瞬見えた――赤黒い塊が転がり出し、地面に落ちる。魚ではない。人間の手のような形が、闇に浮かんだ気がした。

(何!?)

息が止まり、頭が真っ白になる。だが、次の瞬間、男が慌てて塊を拾い上げ、倉庫に消えた。樹は震える手で口を押さえ、物陰に縮こまった。見間違いだ。幻覚だ。そう信じたい。だが、腐臭が風に乗り、鼻をつく。現実が腐り始めているような錯覚に襲われた。

夜、寮に戻った樹はベッドに倒れ込んだ。携帯が鳴り響き、借金取りの声が耳に響く。

「9時だ、黒島。どこだ? 逃げても無駄だぞ。」

電話を切り、樹は天井を見つめた。佐藤の監視、港の奥での不審な動き、赤黒い塊――すべてが頭の中で渦を巻く。

「見ちまった……何だ、あれは……?」

波の音が遠くから聞こえ、腐臭が部屋に漂う。目を閉じても、闇の中で赤黒い手が浮かび上がり続けていた。