魚腐 第5章『赤黒い染み』

第5章: 赤黒い染み

朝の霧が下町を覆う中、黒島樹は港南水産の倉庫に立っていた。五日目の仕事。頭の中は混乱で埋め尽くされている。コンテナの重さ、腐臭、町の噂、そして昨夜すんでのところで中身を見逃した悔しさ。借金取りからの脅しも止まず、10万円の期限が過ぎた今朝、新たなメッセージが届いていた。「次はお前が魚の餌だ。」 胃が縮こまり、膝が震える。だが、立ち止まっている暇はない。知るか、逃げるか――どちらかを選ばなければ、腐っていくのは自分だ。

倉庫の中は冷気が漂い、労働者たちの無言の動きが続く。樹はコンテナを運びながら、頭を働かせていた。佐藤が話していた「港の奥での処分」。そこに何かがあるはずだ。荷物の正体を知る手がかりが、運搬ルートの先に隠されているかもしれない。

昼休み、樹は倉庫の外でトラックの動きを観察した。荷物を積み込んだ後、いつも決まった道を通って港の奥へと消えていく。地図も持たず、ただ記憶を頼りにそのルートを追う決意を固めた。借金の重圧に押し潰されそうになりながらも、好奇心と恐怖が混じった衝動が彼を突き動かしていた。

仕事を終えた夕方、トラックが倉庫を出るのを待つ。佐藤の目が届かない瞬間を見計らい、樹はトラックの後を追い始めた。港の裏道を抜け、錆びた鉄柵や打ち捨てられた漁具が散らばる路地を進む。潮の匂いと腐臭が混じり合い、足音が湿った地面に響く。やがて、トラックが停まったのは港の奥にある古びた倉庫だった。コンクリートの壁はひび割れ、窓は割れて黒い穴のようになっている。

樹は物陰に身を隠し、息を殺して様子を窺った。トラックから降りた男たちがコンテナを運び出し、倉庫の中へと消えていく。遠くからでは中が見えないが、微かに聞こえる機械音と、何かを叩くような鈍い響きが耳に届いた。腐臭が風に乗り、鼻を突く。胸の鼓動が速まり、額に冷や汗が滲む。

(あそこに何があるんだ……?)

近づこうとした瞬間、トラックの荷台に残されたコンテナが目に入った。蓋が少しずれており、隙間から赤黒い液体が滴り落ちている。樹は息を呑み、目を凝らす。液体は地面に落ち、薄暗い光の中で鈍く光っていた。魚の血にしては濃すぎる。人間の血を思わせる赤黒い染みが、コンクリートに広がっていく。

(まさか……いや、そんなはずが……)

頭を振ってその考えを追い払おうとするが、身体が凍りついたように動かない。倉庫から男たちの声が漏れ聞こえ、慌てて物陰に身を縮めた。足音が近づき、佐藤の低い声が響く。

「荷物は全部運べ。ミスるなよ。」

樹は息を止め、佐藤がトラックに戻るのを待った。やがてエンジン音が遠ざかり、静寂が戻る。だが、赤黒い染みが頭から離れず、心臓が締め付けられるようだった。

夜、寮に戻った樹はベッドに倒れ込んだ。携帯が震え、借金取りからの着信が鳴り響く。画面には「今夜中だ。逃げんなよ」とメッセージが表示されている。だが、それを読む気力もない。頭の中では、港の奥の倉庫、赤黒い液体、腐臭が渦を巻いていた。

「魚じゃない……あれは……何だ?」

波の音が遠くから聞こえ、部屋に漂うカビ臭さが腐臭と混じる。目を閉じても、赤黒い染みが闇に浮かび上がり続けていた。