魚腐 第4章『腐りゆく好奇心』

第4章: 腐りゆく好奇心

朝の薄光が下町を照らす中、黒島樹は港南水産の倉庫へと向かっていた。四日目の仕事。眠れぬ夜を過ごし、目には隈が刻まれている。コンテナから聞こえた微かな音、町で囁かれる噂、借金取りの脅し――それらが頭の中で渦を巻き、思考を腐らせていくようだった。だが、立ち止まるわけにはいかない。10万円の期限が今日だ。返す当てはないまま、足は重く地面を引きずっていた。

倉庫に着くと、冷気が肌を刺す。労働者たちはいつも通り黙々と動き、佐藤の鋭い視線が樹を捉えた。

「遅いぞ。さっさと始めろ。」

樹は黙って頷き、コンテナに手を伸ばした。冷たいプラスチックが掌に張り付き、昨日と同じ重さが腕に伝わる。腐臭が鼻を突き、喉が締め付けられる。頭の片隅で、あの音が再び響きそうになり、慌てて目を逸らした。

昼前、荷物を運びながら、樹の我慢が限界に達した。コンテナの重さは魚にしては不自然だ。赤黒い液体、腐臭、軋む音――どれもが普通ではない。借金の重圧に押し潰されそうになりながらも、好奇心が疼き始めていた。この仕事が何かを隠しているなら、知りたい。知らなければ、腐っていくのは自分自身だ。

作業の合間、佐藤が倉庫の奥に消えた隙を見計らい、樹は意を決して口を開いた。近くにいた同僚――あの外国人労働者に声をかける。

「なあ、この荷物……何なんだ?」

男は一瞬手を止め、樹をじっと見つめた。深い皺が刻まれた顔に、怯えが浮かぶ。たどたどしい日本語で答える。

「知らない。聞くな。」

「でも、これ、魚じゃないだろ? 重すぎるし、匂いも――」

「余計なこと、考えるな。」

男はそれだけ言い残し、作業に戻った。だが、その声には震えが混じっていた。樹の胸に、冷たい棘が刺さったような感覚が広がる。佐藤が戻ってくる足音が聞こえ、慌ててコンテナを持ち直した。

昼休み、倉庫の外で一人、樹は携帯を握り潰しそうになっていた。借金取りからの着信が30件を超え、メッセージが新たに届いている。「10万、今日の夕方までだ。隠れても無駄だぞ。」 胃が縮こまり、吐き気が込み上げる。稼いだ日払いの金は数千円。どうやっても足りない。逃げ場がないなら、せめてこの仕事の正体を知りたい――その思いが、抑えきれなくなっていた。

ふと、佐藤が倉庫の奥で何かを話している声が聞こえてきた。聞き耳を立てると、断片的な言葉が耳に飛び込む。

「……今夜、処分だ。港の奥でな。」

「……いつも通り、黙ってろよ。」

処分。港の奥。樹の頭の中で、町の噂が現実味を帯び始めた。人間を解体して海に捨てる――そんな馬鹿げた話が、本当かもしれない。コンテナの中身が何かを知る手がかりが、そこにあるかもしれない。

夕方、トラックに荷物を積み込む作業が始まった。樹は一つのコンテナを持ち上げ、隙間に目を凝らす。赤黒い液体が滲み、腐臭が鼻をつく。重さに耐えながら、意を決して佐藤に近づいた。

「この荷物、何なんですか?」

佐藤の目が鋭く光る。

「魚だ。言っただろ。」

「魚にしては重すぎます。匂いも変だし――」

「余計な詮索はするな。お前、仕事がしたいんだろ?」

その言葉に、借金の重さが胸にのしかかる。返すために働くしかない。だが、黙って運び続けることが、正しいのか分からなくなっていた。佐藤が背を向けると、樹はコンテナをトラックに積み込む。ふと、手が滑り、コンテナが傾いた。中から何かが覗きそうになり、心臓が跳ね上がる。だが、すぐに佐藤の声が飛んできた。

「気をつけろ! 落とすな!」

慌ててコンテナを立て直し、中身を確認する機会を失った。トラックが走り去り、樹は立ち尽くす。腐臭が風に乗り、手に残る冷たさが消えない。

夜、寮に戻った樹はベッドに倒れ込んだ。携帯が震え、借金取りからの電話が鳴り響く。出る気力もなく、ただ目を閉じる。頭の中では、コンテナの重さ、佐藤の言葉、町の噂が渦を巻いていた。

「知りたい……でも、知ったら終わりかもしれない。」

波の音が遠くから聞こえ、腐臭が部屋に漂うような錯覚に襲われた。