第3章: 町の噂
夜の冷気が下町を包む頃、黒島樹は港南水産の倉庫で夜勤に就いていた。三日目の仕事。慣れるどころか、日に日に重くなるコンテナの感触と、掌に残る腐臭が頭を蝕んでいた。借金取りからの脅しも響き続け、眠りは浅く、夢の中でもあの赤黒い液体が滲むコンテナが現れる。目を覚ますたび、現実が夢より暗いことに気づかされた。
倉庫の中は昼間より静かで、冷蔵庫の低い唸り音だけが響いている。労働者たちは疲れ切った顔で動き、言葉を交わすことも少ない。樹は黙々とコンテナを運びながら、頭の中で昨日の同僚の会話を反芻していた。「解体」「処分」。その言葉が、腐臭とともに心にこびりついて離れない。
夜勤の合間、樹は倉庫の外で煙草を吸っていた。港の闇に浮かぶ漁船の灯りが、遠くで揺れている。冷たい風が頬を叩き、潮と腐った魚の匂いが鼻を突く。すると、近くの路地から二人の男の声が聞こえてきた。町の住人だろう。酔った口調で、笑い混じりに話している。
「港南水産さ、あそこヤバいって噂だよな。」
「何だっけ? 人間を解体して海に捨ててるってやつ?」
「ハハ、まじかよ。魚と一緒にミンチにしてんじゃねえの?」
笑い声が響き、男たちはふらつきながら去っていく。樹の手の中で煙草が震えた。冗談だろう。酔っ払いの戯言だ。だが、コンテナの重さ、赤黒い液体、腐臭――それらが頭の中で繋がりそうになり、慌てて煙草を地面に叩きつけた。火が消えると同時に、胸の奥で何かが疼き始めた。
倉庫に戻り、再びコンテナを運ぶ。トラックが来るまであと数時間。冷たいプラスチックを握るたび、手袋越しに伝わる異様な硬さが気になって仕方ない。今夜は特に匂いが強い。鼻を覆いたくなるほどの腐臭が漂い、喉の奥に絡みつく。すると、一つのコンテナを持ち上げた瞬間、微かな音が聞こえた。軋みとも、擦れる音ともつかない、低い響き。
樹は息を止め、耳を澄ました。確かに聞こえる。コンテナの中から、何かが動くような――いや、まさか。そんなはずはない。慌ててコンテナを下ろし、目を凝らす。隙間から滲む赤黒い液体が、薄暗い照明に照らされて鈍く光っていた。
(何だこれ……生きてるのか?)
頭を振ってその考えを追い払う。魚だ。腐った魚に違いない。佐藤の言葉が脳裏をよぎる。「文句あるか?」 あるわけがない。ここで働くしか、借金を返す道はないのだから。
夜が明ける前、仕事が終わり、樹は寮への道を歩いていた。携帯が震え、恐る恐る画面を見ると、借金取りからのメッセージが一件。「10万、今日だ。待ってるぞ。」 胃が締め付けられ、足が止まる。昨日稼いだ日払いの金は数千円。到底足りない。だが、返す当てがないまま立ち尽くしていると、背後から声がした。
「おい、大丈夫か?」
振り返ると、倉庫で働いていた男が立っていた。浅黒い肌に深い皺が刻まれた、あの外国人労働者だ。初めて言葉を交わす。男はたどたどしい日本語で続ける。
「顔、悪い。病気?」
「いや……ただ、疲れてるだけだ。」
男はしばらく樹を見つめ、やがて低い声で呟いた。
「ここ、変だ。気をつけろ。」
「変って……何が?」
だが、男はそれ以上答えず、暗い路地へと消えていった。樹はその背中を見送りながら、胸の疼きが強くなるのを感じた。町の噂。コンテナの音。腐臭。すべてが頭の中で渦を巻き始めていた。
寮の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。波の音が遠くから聞こえ、カビ臭い部屋に腐臭が混じるような錯覚に襲われる。携帯を握り潰しそうになりながら、樹は呟いた。
「借金さえなければ……こんな町、来なかったのに。」
だが、その言葉は虚しく響き、闇に溶けていった。