第2章: 魚と腐臭
朝焼けが下町の空を薄く染める頃、黒島樹は港南水産の冷蔵倉庫に足を踏み入れていた。二日目の仕事だ。昨日感じた荷物の不自然な重さや、掌に残った冷たさが頭を離れない。だが、そんなことを考える余裕はない。借金取りからの脅しが耳にこびりつき、50万円という数字が脳裏で膨張し続けていた。
倉庫の中は昨日と同じく冷気が漂い、魚の生臭さが湿った空気に混じっている。労働者たちは無言で動き、機械的な動作の中に奇妙な緊張感が漂っていた。樹は彼らの顔を見ないようにして、自分の持ち場へと向かった。逃げ場のない現実を直視する勇気は、まだ持てなかった。
「今日も荷物運びだ。トラックが来るまで積み上げとけ。」
佐藤の声が倉庫に響く。ぶっきらぼうな口調に感情はなく、ただ命令だけが投げつけられる。樹は頷き、プラスチック製のコンテナに手を伸ばした。霜が付いた表面は冷たく、昨日と同じ重さが腕にずしりと伝わる。持ち上げるたび、微かな軋みがコンテナの中から聞こえる気がした。
作業中、隣で働く男が低い声で呟いた。言葉は聞き取れないが、「解体」や「処分」という単語が断片的に耳に飛び込んできた。外国人労働者だろう。浅黒い肌に深い皺が刻まれ、目は虚ろだ。樹が何気なく視線を向けると、男は慌てて顔を背けた。その動きに、胸の奥で何かが引っかかる。
(何だ? 何を隠してるんだ?)
だが、すぐに佐藤の視線が背中に刺さり、樹は思考を振り払った。余計な詮索は危険だ。借金を返すため、ここで働くしかないのだから。
昼休み、倉庫の外で缶コーヒーを手に一息つく。港から吹く風が冷たく、潮と腐った魚の匂いを運んでくる。樹は携帯を手に持つが、電源を入れる気にはなれなかった。昨日からさらに着信が増えているだろう。現実を直視すれば、膝が震えそうだった。
近くで休憩していた二人の労働者が、小声で話をしている。異国の言葉が混じるが、日本語が聞き取れた。
「また昨夜、倉庫で何かやってたらしいぜ。」
「解体か? あそこ、臭いがきつすぎる。」
「知らねえ。関わりたくねえよ。」
樹の耳にその言葉が引っかかる。解体。処分。昨日のコンテナから滲んだ赤黒い液体が脳裏をよぎり、胃が締め付けられた。魚の処理にしては不自然すぎる。だが、立ち上がって問いただす勇気はない。缶コーヒーを握り潰し、目を閉じた。
夕方、再び荷物運びの時間がやってくる。トラックが倉庫前に停まり、樹はコンテナを次々と積み込んでいく。冷たい感触が掌に染み込み、手袋越しでも凍えるような感覚が走る。すると、一つのコンテナを持ち上げた瞬間、鼻を突く異臭が漂ってきた。魚の腐臭だ。生臭さを通り越して、喉の奥に絡みつくような不快な匂い。
樹は思わずコンテナを下ろし、鼻を押さえた。近くにいた佐藤が鋭い目を向ける。
「何だ? さっさと動け。」
「この匂い……何ですか?」
「魚だよ。腐りかけでも運ぶんだ。文句あるか?」
佐藤の言葉に噛みつくような苛立ちがあった。樹は黙ってコンテナを持ち直したが、頭の中は混乱していた。魚にしては重すぎる。匂いも、ただの腐敗とは思えないほど異質だ。トラックに積み終えた後、手袋を外すと、掌に残る冷たさと腐臭が消えなかった。
夜、寮に戻った樹はベッドに倒れ込む。薄汚れた部屋にはカビの匂いが漂い、港の波音が遠くから聞こえてくる。携帯の電源を入れると、案の定、借金取りからの着信が20件を超えていた。メッセージが一つだけ残されている。再生すると、低い声が耳に響いた。
「黒島。明日までに10万でもいい。持ってこい。さもないと、魚の餌にしてやる。」
電話を投げ出し、樹は天井を見つめた。魚の餌。腐臭。赤黒い液体。頭の中で点が繋がりそうになり、慌てて目を閉じる。だが、闇の中でもあのコンテナの重さが、手に残ったままだった。