第1章: 借金の影
薄暗い空の下、黒島樹は電車から降り立った。足元のアスファルトはひび割れ、潮風に混じる魚の生臭さが鼻をつく。不法就労外国人が多く住むという下町だ。手に提げたスーツケースは古びて角が擦り切れ、彼の人生そのものを映しているようだった。スーツは皺だらけで、ネクタイは緩く垂れ下がっている。疲れ切った目には、深い焦燥感が宿っていた。
ギャンブルで作った借金は300万円に膨れ上がっていた。気づいた時にはもう手遅れで、返せなければどうなるか――それは考えたくもない結末だった。樹は逃げるようにこの町に流れ着いた。ここで働くしか、生き延びる道は残されていなかった。
路地を歩きながら、彼はポケットから携帯電話を取り出した。画面には「借金取り: 15件の不在着信」と表示されている。震える指で電源を切り、深い息を吐いた。潮の匂いと腐った魚の臭いが混じり合い、胃の奥が締め付けられるようだった。
目指したのは「港南水産」という小さな水産会社だった。看板には「魚介類加工・運搬」とあるが、建物は古く、コンクリートの壁にはひびが入り、錆びた鉄骨が剥き出しになっていた。入口で待っていたのは、無愛想な中年男だった。佐藤と名乗るその男は、脂ぎった作業着を着て、樹を値踏みするように睨んだ。
「お前が黒島か。履歴書なんかいらねえ。働けるならそれでいい。今日から荷物運びだ。」
「はい、分かりました。給料は……?」
「日払いだ。余計なことは聞くな。」
佐藤に連れられ、冷蔵倉庫の中へ足を踏み入れる。そこには数人の労働者が黙々と働いていた。浅黒い肌、鋭い目つき、異国の言葉が時折漏れ聞こえる。彼らは不法就労外国人だろう。誰もが目を合わせようとせず、ただ機械的に手を動かしていた。樹はその暗い表情に一瞬たじろいだが、すぐに目を逸らした。自分だって、彼らと大差ない身の上なのだ。
「これをトラックまで運べ。重いから気をつけろ。」
佐藤が指差したのは、大きなプラスチック製のコンテナだった。表面には霜が付き、冷気が白い靄となって漂っている。樹が両手で持ち上げると、予想以上の重さに身体が揺れた。ずっしりとした感触が腕に伝わり、魚にしては不自然な硬さに眉をひそめた。
(何だこれ? 重すぎる……魚じゃないみたいだ)
コンテナをトラックに積み込む間、隣で働く男が一瞬だけ樹を見やった。その目は怯えと諦めが混じり合い、まるで何かを訴えているようだった。樹が口を開きかけた瞬間、佐藤の鋭い声が倉庫に響いた。
「ぼさっとすんな! 次行け!」
言葉を飲み込み、樹は次のコンテナに手を伸ばした。冷たいプラスチックが掌に張り付き、骨まで凍えるような感覚が走る。頭の片隅で、嫌な予感が膨らみ始めていた。
仕事を終え、倉庫の外で一息つく。港から吹く風が冷たく、魚の腐臭を運んでくる。樹はポケットから携帯を取り出し、恐る恐る電源を入れた。すぐに着信音が鳴り響き、画面には「借金取り」と表示される。渋々電話に出ると、耳に怒声が突き刺さった。
「黒島、どこに隠れてやがる? 今週中に50万用意しろ。さもないと分かってるな?」
「分かってます……。今、仕事始めたばかりで……」
「言い訳は聞かねえ。期限は3日後だ。」
電話が切れると、樹は膝に顔を埋めた。頭の中で数字がぐるぐる回る。50万。3日。どうやって? 逃げ場のない現実に、胃が締め付けられる。港の波音が遠くで響き、腐臭が喉に絡みついてくる。
再び倉庫に戻り、最後のコンテナを運ぶ。トラックに積み込む際、手袋越しに感じる冷たさが異様にリアルだった。ふと目をやると、コンテナの隙間から微かに赤黒い液体が滲んでいる。息が止まり、心臓が跳ね上がる。
(血……? いや、まさか。魚の汁だろ……)
慌てて手を拭うが、生臭さと鉄のような匂いがこびりついて離れない。トラックが荷物を積んで走り去り、暗闇に消えていく。樹はその場に立ち尽くし、遠くで波が打ち寄せる音を聞きながら、自分の手を見つめた。掌に残る冷たさと匂いが、頭から離れなかった。