夏の日に遭遇した不思議な話
あれは、私が免許を取ったばかりの夏のことだった。
18歳の私は、初めての車を手に入れ、どこかへ行きたいという衝動に駆られていた。
特別な目的地もなく、ただハンドルを握り、適当に走り出した。
街の喧騒を抜け、気がつけば山道を登る細い道路に差し掛かっていた。
カーブの多い道を進むうち、木々の隙間から陽光がちらちらと差し込む。
ラジオの電波は途切れ、車内にはエンジンの低い唸りだけが響く。
どこか懐かしいような、でも少し不気味な静けさが漂っていた。すると、突然、道の先に小さな集落が現れた。
古びた木造の家々が点在し、畑や小さな神社まである。まるで時間が止まったような風景だった。
しかし、妙なことに、人の気配がまるでない。
洗濯物が風に揺れ、家の窓にはカーテンが掛かっている。誰かが住んでいるはずなのに、誰も歩いていない。
犬の鳴き声も、子供の笑い声も聞こえない。
空気は重く、夏の暑さとは裏腹に、背筋に冷たいものが走った。
「こんなところに集落があったなんて…」
私は車をゆっくり走らせ、集落の奥へと進んだ。
すると、道の突き当たりに小さな商店が現れた。
色褪せた看板には「オロナミンC」の文字。昭和の香りが漂うその看板は、まるで時代から取り残されたようにそこに立っていた。
好奇心が勝り、私は車を降りて商店の引き戸を開けた。
「すみません、誰かいますか?」
ガラガラと音を立てる戸の向こうは、薄暗い店内だった。
棚には懐かしい菓子や缶詰が並び、奥には小さな冷蔵庫がブーンと低い音を立てている。
だが、店員の姿はない。
カウンターの上には、古い感じのレジと、開かれたままの新聞。
「誰もいないのか…?」
店内を見回していると、ふと、背後に気配を感じた。振り返るが、誰もいない。
なのに、視線が突き刺さるような感覚が消えない。
まるで、壁の向こうや天井の隙間から、誰かがじっと私を見ているようだった。
「気持ち悪い…」虫が這うような不快感が全身を覆い、夏の湿った空気が一層重く感じられた。
もうここにはいられない。
私は慌てて店を飛び出し、車に乗り込んだ。エンジンをかけ、アクセルを踏む。
集落を抜ける道を猛スピードで走りながら、バックミラーを見た。
そこには、誰もいないはずの集落の道に、ぼんやりと人影が立っている気がした。
だが、すぐに木々に遮られ、見えなくなった。
家に帰った後も、あの集落のことが頭から離れなかった。
あの視線、あの不気味な静けさ。まるで夢だったかのように思えたが、車のフロントガラスに付いた山道の土埃が、あれが現実だったことを物語っていた。
数年後、ふとしたきっかけで、あの集落のことを思い出した。もう一度行ってみようと思ったのだ。
もしかしたら、ただの錯覚だったのかもしれない。地図を頼りに、あの夏と同じ道をたどった。
山道を登り、カーブを曲がり…だが、どれだけ走っても、集落は現れなかった。
「こんなはずない。あの商店、あの看板…確かにあったのに…」
私は何度も同じ道を行き来したが、集落の痕跡すら見つからなかった。まるで、あの夏の日、私が迷い込んだ場所は、この世界に存在しないかのように…。
あの集落は、確かにそこにあった。オロナミンCの看板も、視線も、すべてが鮮明に記憶に残っている。
なのに、なぜ…?
今でも、夏の暑い夜になると、あの集落のことを思い出す。そして、ふと、背後に視線を感じることがある。振り返っても誰もいない。だが、どこかで、誰かが私を見ているような気がしてならない。