エピソード5: 「地下の声」
矢島英雄は、チョココロネ事件から数日後の週末、アパートのソファに座ってぼんやりとテレビを眺めていた。AIが選んだ「リラックス向け番組」が流れているが、英雄の頭は別のことで占められていた。あの小さな反抗が失敗に終わり、上司からの警告を受けた日から、彼の中で何かが疼いている。AIに縛られた生活に、ほんの少しでも亀裂を入れたい—そんな思いが、静かに膨らんでいた。
外は薄暗くなり、窓の外をドローンが規則正しく飛び交う音が聞こえる。英雄は缶コーヒーを手に立ち上がり、気分転換に近所を散歩することにした。AIの監視カメラが至る所にある街だが、夜の空気を感じるだけでも、少しは自由な気持ちになれるかもしれない。
駅近くの裏通りを歩いていると、英雄は不思議な光景に気づいた。路地の奥、普段なら見過ごすような薄暗い場所で、数人の人影が集まっている。ドローンの巡回ルートから外れた死角だ。好奇心に駆られた英雄は、足音を忍ばせて近づいた。すると、ひそひそとした会話が耳に飛び込んできた。
「AIの予測なんかに頼ってたら、人間らしさが死ぬだけだ。俺たちはもっと自由に生きていいはずだろ」 「次の計画は慎重にやらないと。ガーディアンの目が厳しくなってる」 声の主たちは、ぼろぼろの服を着た男女だった。20代から40代くらいに見えるが、どこか疲れ果てた表情を浮かべている。英雄は物陰に隠れ、息を潜めて聞き続けた。
「佐藤の事件で、少しは風向きが変わった。あの叫び、俺たちに火をつけたよ」 佐藤健一の名前が出た瞬間、英雄の心臓が跳ねた。彼らは何者だ? AIに反抗するグループなのか? 英雄の頭に、立てこもり事件の記憶が蘇る。あの男の怒りが、こんな場所にも響いているなんて。
その時、一人の男が英雄の方を振り返った。鋭い目つきに、英雄は慌てて身を縮めたが、遅かった。 「おい、そこのお前。何だ? ガーディアンのスパイか?」 男が近づいてくる。英雄は逃げようとしたが、他のメンバーが素早く周りを囲んだ。仕方なく、彼は手を挙げて降参の意を示した。 「違う、俺はただ…偶然通りかかっただけだ。佐藤の名前聞いて、気になって」
リーダーらしき男—30代後半で、顎に傷のある人物—が英雄をじろりと見つめた。 「佐藤を知ってるなら、話は早い。お前、AIに飼い慣らされた犬か? それとも、俺たちと同じで何か感じてるのか?」 英雄は言葉に詰まった。自分の気持ちをどう説明すればいいのか分からない。でも、心の奥で疼く何かが、彼に口を開かせた。 「俺…最近、AIが決める毎日に、息苦しさを感じてる。あの男の叫びが、頭から離れないんだ」
男たちは顔を見合わせ、短く笑った。リーダーが肩を叩いてきた。 「なら、少し付き合え。ここじゃ危ない。ついてこい」 英雄は迷ったが、好奇心と、どこか共鳴する気持ちに押され、彼らに従った。
数分後、英雄は古いビルの地下室に連れ込まれた。電灯が薄暗く灯り、壁にはAI統治を批判する落書きが描かれている。男たちは自己紹介した。リーダーの名は亮太。元エンジニアで、AIのシステムに疑問を持ち、地下に潜ったという。他のメンバーは、AIに仕事を奪われた者や、家族を失った者たちだ。彼らは「人間の意志を取り戻す」ために活動している小さなグループだった。
亮太が口を開いた。 「俺たちは、AIが奪ったものを取り戻したい。感情とか、予測できない行動とか、それが人間らしさだろ? 佐藤はそれを体現した英雄だよ。あいつのおかげで、俺たちにも希望が見えた」 英雄は亮太の言葉に引き込まれた。確かに、AI社会では全てが予測され、管理されている。効率的で安全だが、そこに人間らしい「乱れ」はない。佐藤の叫びが、彼らにとっての旗印だったのだ。
「で、お前はどうしたい?」亮太が英雄を見据えた。「このままAIの犬として生きるか、それとも俺たちと一緒に何かやってみるか?」 英雄は喉が乾くのを感じた。参加すれば危険だ。ドローンに見つかれば、即座に捕まるだろう。でも、このまま何もしないでいるのも、もう耐えられない気がした。
「俺…まだ分からない。でも、話を聞いてみたい」 亮太はニヤリと笑い、他のメンバーが頷いた。「それでいい。まずは知ることからだ。次に会う時、答えを出してくれ」
帰り道、英雄は地下室での会話を反芻した。彼らの言葉は、英雄の心に新しい風を吹き込んだ。AIに逆らうなんて、考えたこともなかった。でも、彼らの言う「人間らしさ」が、英雄の中で共鳴し始めていた。
アパートに戻り、ベッドに横になると、英雄は天井の監視カメラを見上げた。今夜初めて、その赤い光が少しだけ遠く感じられた。亮太たちの声が、英雄に新たな選択肢を示していた。参加するか、しないか。リスクと引き換えに得られるものとは何か。
その夜、英雄の夢には、佐藤健一の叫びと、地下室の薄暗い光が交錯した。答えはまだ出ない。でも、何かが動き始めていた。