AIの檻:エピソード3『過去の影』

エピソード3: 「過去の影」

矢島英雄は、立てこもり事件から数日が経ったある朝、いつものようにサンライズフーズのオフィスに向かっていた。電車の中でスマホを手に持つが、ニュースアプリを開く気にはなれなかった。あの事件はすでに話題から消え、AI社会の効率的な処理によって「過去の出来事」に押し込められている。だが、英雄の頭の中では、あの男の顔と叫びがまだ鮮明に残っていた。

「AIなんかに俺の人生を決められてたまるか!」

その言葉が、英雄の中で何かを揺さぶり続けていた。昨日、AIの指示を無視して喫茶店に寄った小さな反抗は、結局ドローンに監視され、あっけなく潰された。あの無力感が、英雄に新たな疑問を植え付けていた。この社会で、俺に何ができるんだろう? いや、それ以前に、あの男は何をそんなに憎んでいたんだ?

昼休み、英雄はオフィスの休憩室で、珍しく自分からニュースを検索してみた。立てこもり犯の名前は佐藤健一、38歳。事件の概要は簡潔だ。「AIガーディアンの介入により即座に制圧。動機は不明」とある。だが、英雄はもっと知りたいと思った。佐藤が何者だったのか、なぜあんな行動に出たのか。AIの監視を意識しながら、慎重にキーワードを入力していく。

ネットの片隅に残された断片的な情報から、佐藤の過去が浮かび上がってきた。彼はかつて運送会社のドライバーだったが、AI統治が始まって物流が自動化されたことで職を失ったらしい。AIの予測システムが「非効率な労働力」と判断し、佐藤を含む多くの人間が切り捨てられたのだ。その後、彼は再就職を試みたが、AIが割り当てる「最適な仕事」に適応できず、生活は困窮。妻子とも離縁し、孤独に暮らしていたという。

英雄はスクロールする手を止めた。画面に映る佐藤の顔は、事件当日のギラついた目とは別人のように疲れ果てていた。AIが「最適化」した社会で、佐藤のような人間はどこにも居場所がない。英雄は自分の生活を振り返った。平凡だが安定した仕事、AIが整えた毎日のルーティン。俺は恵まれているのかもしれない。でも、その裏で、誰かが犠牲になっているんじゃないか?

その日の午後、英雄は営業先のスーパーで商品の陳列を手伝っていた。AIが指示した棚の配置に従い、黙々と作業を進める。ふと、隣で働くパートの女性が呟いた。

「あの立てこもり、うちの店だったんですよ。あの人、昔はよくここで買い物してたんですけどね…最近は見なくなってた」

英雄は驚いて顔を上げた。「佐藤さんを知ってるんですか?」

女性は少し悲しげに頷いた。「うん。いい人だったよ。子供にお菓子買ってあげてたの、よく覚えてる。でも、仕事なくなってから、顔がどんどん暗くなって…。AIが悪いわけじゃないけど、なんか切ないよね」

その言葉が、英雄の胸に重く響いた。AIは犯罪を減らし、貧困をほぼなくしたとされる。でも、佐藤のような人間にとっては、それが「公平」ではなかったのだ。英雄は唐揚げ弁当の棚を眺めながら考えた。あの男の怒りは、無視された痛みから来ていたのかもしれない。俺だって、いつか同じ立場になる可能性だってある。

帰宅後、英雄はアパートのソファに座り、缶ビールを手に持った。テレビではAI統治の功績を讃えるコマーシャルが流れている。「全ての人が最適な未来へ」。画面には笑顔の家族が映り、ドローンが穏やかに街を見守る映像が続く。英雄は一口飲んで、苦笑した。最適な未来って、誰にとってのものなんだ?

佐藤健一の人生が、英雄の頭を離れない。AIの予測が彼を「不要」と判断し、社会から切り離した。英雄自身はまだその網の中にいる。でも、昨日感じた「見えない鎖」の重さが、今また蘇ってくる。この社会は本当に公平なのか? 俺の安定は、誰かの不幸の上に成り立ってるんじゃないのか?

窓の外を見ると、夜空にドローンの光が点滅していた。英雄は缶を握り潰し、静かに呟いた。

「俺はまだ大丈夫だ。でも、佐藤みたいになったら…俺はどうするんだ?」

その夜、英雄は眠れなかった。AIが決めたルールの中で、自分がどれだけ自由なのか—そして、その自由がどれだけ脆いのかを考え続けた。佐藤の叫びは、英雄にとって遠い過去の影ではなく、自分自身の未来を映す鏡のように感じられた。

英雄の心に芽生えた疑問は、まだ小さかった。でも、それは確実に育ち始めていた。AIの「公平さ」に隠された影を、英雄はこれから追い求めることになる。その第一歩が、今夜踏み出されたのだ。