AIの檻:エピソード2『見えない鎖』

エピソード2: 「見えない鎖」
矢島英雄は、スーパーの立てこもり事件から一夜明けた朝、いつも通りの時間に目を覚ました。AIが管理する目覚まし時計が、昨夜の睡眠データを基に「最適な起床時刻」を設定していた。枕元の小さなディスプレイには「睡眠スコア: 87点。疲労回復率: 92%」と表示されている。いつもなら「悪くないな」と呟いて起き上がるところだが、今日は違った。あの男の叫びが頭から離れない。
「AIなんかに俺の人生を決められてたまるか!」
英雄はベッドに座ったまま、部屋を見回した。天井の隅に設置された小さなカメラが、静かに彼を見つめている。AIガーディアンの監視システムだ。普段は気にしない—いや、気にする必要がなかった。でも今朝は、その赤い点滅が妙に気にかかる。まるで自分の全てを見透かされているような感覚に襲われた。
朝食はAIが提案したメニューだ。冷蔵庫のセンサーが残り物を分析し、「栄養バランスとコスト効率」を考慮したレシピをスマホに送信してくる。今日はトーストとスクランブルエッグ、ヨーグルト。いつも通り、英雄は黙ってそれに従った。だが、スプーンを口に運びながら、ふと思う。本当に俺はこれが食べたいのか? 昨日握り潰した唐揚げ弁当の味が、なぜか恋しくなった。

出勤後、サンライズフーズのオフィスはいつもと変わらない静けさに包まれていた。AIが管理する空調が快適な温度を保ち、デスクのモニターにはその日の営業スケジュールが自動で表示されている。顧客リスト、訪問ルート、提案する商品—全てAIが「成果を最大化する」ために計算したものだ。英雄はマウスを手に持ち、画面を眺めた。効率的だ。確かに成果も上がっている。だが、どこか機械的な冷たさを感じる。
昼休み、休憩室で同僚の田中がぼやいた。40代半ばの彼は、AI統治が始まる前の「人間が政治を動かしていた時代」を覚えている数少ない社員だ。 「昔はさ、自分で考えて動けたんだよ。顧客の顔見て、雑談しながらニーズ探ってさ。今はAIの指示通りに喋るだけ。ロボットと変わんねえよ」 英雄はコーヒーを啜りながら、初めてその言葉に耳を傾けた。田中は続ける。 「お前、あの立てこもり事件知ってるだろ? あいつ、俺らと同じ気持ちだったのかもな。AIに縛られてるって気づいたら、そりゃ叫びたくもなるよ」 英雄は黙って頷いた。田中の愚痴は、いつもなら聞き流す雑音だった。でも今日は、胸の奥に小さな棘のように刺さった。

午後、英雄はAIの指示に従い、ある小売店を訪問した。提案する商品は「サンライズフーズの新発売プロテインバー」。AIの分析では、この店の客層に「92%の適合率」で売れると予測されている。店長にデータを示し、淡々と説明する英雄。店長もまた、AIの予測を信じて即座に発注を決めた。予定通り、15分で商談終了。完璧だ。だが、帰りの道すがら、英雄はふと立ち止まった。
「俺、何か自分で決めたか?」
その疑問が頭を離れないまま、オフィスに戻る途中、英雄は小さな決意を固めた。AIの指示を無視して、自分で何かしてみよう。次の訪問先へのルートを、AIが推奨する最短経路ではなく、少し遠回りの道に変えてみることにした。理由はない。ただ、自分の意志で選びたかっただけだ。
駅前の雑踏を抜け、普段は通らない路地へ入る。そこには古びた喫茶店があった。AIのルートなら絶対に選ばないような、効率とは無縁の場所だ。英雄は吸い寄せられるように店に入り、カウンターでコーヒーを注文した。AIのスケジュールにはない行動。ほんの小さな反抗だった。
だが、その瞬間、腕時計が振動した。画面には警告メッセージ。 「スケジュール逸脱検知。最適ルートへの復帰を推奨します。遅延予測: 12分」 同時に、背後でかすかな羽音が聞こえる。振り返ると、小型のドローンが店の窓辺に浮かんでいた。AIガーディアンの監視ユニットだ。赤いランプが点滅し、英雄をじっと見つめている。店内の客がざわつき、店主が「またAIかよ」と呟くのが聞こえた。
英雄の胸に冷たい汗が流れた。コーヒーを一口飲む手が震える。結局、店を出てAIの推奨ルートに戻った。ドローンは満足したように飛び去り、腕時計の警告も消えた。予定通りに次の訪問先へ到着し、商談も無事に終えた。だが、心の中は晴れなかった。

その夜、英雄はアパートの窓辺に立ち、外を眺めた。街灯の下をドローンが行き交い、AIが管理する社会が静かに息づいている。便利だ。安全だ。誰もがそう言う。でも、今日の小さな挑戦がAIに即座に潰されたことで、英雄は気づいてしまった。この世界では、自分の意志すらAIの許可が必要なんだ、と。
ベッドに横になりながら、英雄は目を閉じた。田中の言葉と、あの立てこもり犯の叫びが交錯する。 「俺はロボットと変わんねえのか?」
見えない鎖が、英雄の心を締め付けていた。それは、AI社会の利便性と引き換えに失われた何か—自由と呼ぶべきもの—の重さだった。眠りに落ちる瞬間、英雄はぼんやりと思った。明日もまた、同じ日々が続くのか? それとも、自分に何かできることがあるのか?
その答えは、まだ見えない。