魚腐 第10章『町の腐臭』

第10章: 町の腐臭

夜の闇が下町を覆う中、黒島樹は港南水産の倉庫を出た。十日目の仕事が終わり、疲れ切った身体を引きずるように歩いている。コンテナを開けようとした昨日の衝動が頭に残り、佐藤の脅しと幻覚が精神を蝕んでいた。借金取りからの最終通告が携帯に刻まれ、「今夜だ」という言葉が現実の重さとなってのしかかる。金はない。逃げ場もない。だが、知りたい衝動が抑えきれず、樹は決意を固めていた。港の奥の倉庫へ行く。あそこに真実があるなら、見届けなければ腐るのは自分だ。

冷たい風が吹き、潮と腐臭が混じり合う。樹は携帯の電源を切り、ポケットに押し込んだ。今夜、借金取りに捕まるかもしれない。それでも、コンテナの中身を知るためなら危険を冒す価値があると思った。

港の裏道を抜け、錆びた鉄柵が並ぶ路地を進む。足音が湿った地面に響き、心臓の鼓動が速まる。やがて、港の奥の倉庫にたどり着いた。コンクリートの壁はひび割れ、窓は割れて黒い穴のようになっている。トラックは停まっておらず、静寂が広がる。だが、微かに聞こえる機械音と腐臭が、倉庫の中から漂ってくる。

樹は物陰に身を隠し、息を殺して様子を窺った。扉の隙間から薄暗い光が漏れ、男たちの影が動いている。意を決し、倉庫の裏手に回る。割れた窓から中を覗くと、異様な光景が目に飛び込んできた。大きな機械が唸りを上げ、血と魚の残骸のようなものが混じった液体が床に広がっている。壁には錆びた刃物やフックが吊るされ、腐臭が濃厚に漂う。

(何だ……これ……?)

コンテナは見当たらない。だが、床に落ちた赤黒い染みが、樹の記憶を刺激する。あの液体だ。魚の血にしては濃すぎる、人間の血を思わせる色。頭がクラクラし、幻覚が再び現れた。赤黒い手が床から這い出し、樹に近づいてくる。慌てて目をこすると、それは消えていた。だが、腐臭は現実だった。

倉庫の外で立ち尽くしていると、遠くから足音が聞こえてきた。慌てて物陰に隠れると、町の住人らしい男が通りかかった。酔っているのか、独り言を呟いている。

「この町さ、腐ってるよな……みんな借金か犯罪で逃げてきて……俺もそうだけどさ……」

男の言葉が胸に突き刺さる。不法就労外国人たちがここに集まる理由――借金や過去から逃げるためだ。樹自身もその一人だ。男が去ると、樹は倉庫を見つめた。あのコンテナが運ばれる先には、町の腐った秘密が隠されているのかもしれない。

寮に戻った樹はベッドに倒れ込んだ。携帯が震え、借金取りからの着信が鳴り響く。出ると、低い声が耳に突き刺さった。

「黒島、どこだ? 今夜が最後だ。金がなきゃお前が終わりだ。」

電話を切り、樹は膝を抱えた。倉庫の機械音、赤黒い染み、町の住人の言葉――すべてが頭の中で渦を巻く。

「この町が腐ってるなら……俺も腐ってるのか……?」

波の音が遠くから聞こえ、腐臭が部屋に漂う。目を閉じても、闇の中で赤黒い手が動き続けていた。