魚腐 第9章『開けるか、腐るか』

第9章: 開けるか、腐るか

朝の薄暗い空が下町を覆う中、黒島樹は港南水産の倉庫に足を踏み入れていた。九日目の仕事。悪夢と幻覚に苛まれ、眠りはもはや休息ではなく苦痛に変わっていた。赤黒い手が這い出す幻覚、同僚の失踪、腐臭――それらが現実と混じり合い、頭を腐らせていく。借金取りからの脅しも止まず、携帯には「今夜が最後だ」というメッセージが刻まれている。知るか、腐るか、それとも終わるか――選択肢は狭まり、樹の精神は限界に近づいていた。

倉庫の中は冷気が漂い、労働者たちの無言の動きが続く。佐藤の監視がさらに厳しくなり、樹の背中に鋭い視線が突き刺さる。だが、もう我慢できなかった。コンテナの中身を知りたい。魚なのか、人間なのか、真実がなければこの腐敗した現実の中で正気を保てない。

昼前、樹は機会を窺った。佐藤が倉庫の奥に消え、他の労働者が作業に没頭している瞬間を見計らい、一つのコンテナに近づいた。霜が付いた表面に手を置き、隙間に指を差し込む。冷たいプラスチックが掌に張り付き、腐臭が鼻を突く。蓋を少しずらし、中を覗こうとしたその時、低い声が背後から響いた。

「お前、何してんだ?」

振り返ると、あの外国人労働者が立っていた。失踪したはずの男ではない。別の、瘦せた男だ。目には怯えと怒りが混じっている。

「見るだけだ……何が入ってるか知りたいだけだ!」

「馬鹿か! 知ったら終わりだ!」

男が樹の手を掴み、コンテナから引き剥がす。言い争いが倉庫に響き、他の労働者が視線を向けた。樹は男を振り払い、再び蓋に手を伸ばす。だが、その瞬間、佐藤の足音が近づき、鋭い声が空気を切り裂いた。

「黒島! 手を離せ!」

佐藤が詰め寄り、樹の手首を掴んでねじ上げる。痛みに顔を歪めながら、樹は叫んだ。

「何だこれ!? 魚じゃないだろ!?」

「お前、頭おかしいのか? 仕事がしたいなら黙って運べ。次やったら終わりだぞ。」

佐藤の目が冷たく光り、殺意すら感じさせる。樹は手を離し、コンテナから引き下がった。だが、頭の中では赤黒い染みと腐臭が渦を巻き、収まらない。

夕方、トラックに荷物を積み込む作業中、樹の視界が揺れた。幻覚が再び現れ、コンテナから赤黒い手が這い出してくる。現実と混じり合い、心臓が締め付けられる。佐藤の監視が続き、労働者たちも樹を避けるように距離を取っていた。孤立感が腐臭とともに胸に広がる。

携帯が震え、借金取りからの着信が鳴り響く。出ると、低い声が耳に突き刺さった。

「今夜だ、黒島。金がなきゃお前が海に沈む。分かってるな?」

電話を切り、樹は膝に顔を埋めた。金はない。逃げ場もない。コンテナの中身を知るか、このまま腐るか――どちらも終わりを意味しているように思えた。

夜、寮に戻った樹はベッドに倒れ込んだ。手を握り潰しそうになりながら、頭の中で佐藤の言葉が反響する。「知ったら終わりだ」。だが、知らなければこの恐怖と幻覚に飲み込まれる。コンテナの蓋をわずかにずらした感触が掌に残り、腐臭が部屋に漂うような錯覚に襲われた。

「開けたい……でも、開けたら……」

波の音が遠くから聞こえ、闇の中で赤黒い手が浮かび上がる。目を閉じても、腐敗した現実が消えることはなかった。