魚腐 第8章『幻と現実』

第8章: 幻と現実

朝の霧が下町を覆う中、黒島樹は港南水産の倉庫に立っていた。八日目の仕事。昨夜、港の奥で目撃した赤黒い塊が頭から離れない。あれは人間の手だったのか、それとも魚の残骸か――現実と幻覚の境界が曖昧になり、眠りは悪夢に支配されていた。借金取りからの脅しも止まず、携帯には「次はお前だ」というメッセージが刻まれている。逃げ場のない現実が、樹の精神を腐食させていた。

倉庫の中は冷気が漂い、労働者たちの無言の動きが続く。だが、今日は様子が違う。あの外国人労働者――深い皺が刻まれた男がいない。樹は周囲を見回したが、誰もその不在に触れない。佐藤の鋭い視線が背中に刺さり、黙ってコンテナに手を伸ばした。冷たいプラスチックが掌に張り付き、腐臭が鼻を突く。赤黒い染みが脳裏を焼き、頭がクラクラした。

昼前、コンテナを運ぶ作業中、樹の視界が揺れた。疲労と恐怖が積み重なり、幻覚が現れ始めた。コンテナの隙間から、赤黒い手が這い出してくる――人間の手だ。爪が剥がれ、腐った肉が垂れ下がっている。息が止まり、手が震えてコンテナを落としそうになる。だが、目をこすると、それは消えていた。ただの染みだ。魚の血だ。そう自分に言い聞かせた。

(見間違いだ……疲れてるだけだ……)

だが、心臓の鼓動は収まらない。佐藤が近づき、低い声で警告する。

「お前、最近おかしいぞ。ミスるなよ。」

樹は黙って頷いたが、佐藤の監視がさらに厳しくなっているのを感じた。倉庫の中での孤立感が、腐臭とともに胸に広がる。

夕方、休憩時間に倉庫の外で煙草を吸っていると、他の労働者の会話が耳に入った。

「あいつ、昨夜からいねえな。」

「港の奥で何かあったんじゃねえの?」

「噂通りか……関わりたくねえよ。」

樹の耳に「失踪」という言葉が突き刺さる。あの男がいなくなった。港の奥での不審な動きを目撃した夜と重なる。町の噂――「人間を解体して海に捨てる」――が現実味を帯び始めた。煙草が震え、灰が地面に落ちる。頭の中で、赤黒い手が再び浮かび上がった。

夜、寮に戻った樹はベッドに倒れ込んだ。目を閉じると、悪夢が襲ってくる。港の奥の倉庫。機械音が響き、コンテナが開く。中から赤黒い塊が溢れ出し、人間の形を成していく。顔のない影が樹に手を伸ばし、腐臭が喉を締め付ける。「お前が次だ」と囁く声が聞こえ、飛び起きると全身が汗で濡れていた。

携帯が震え、借金取りの声が響く。

「黒島、隠れてても無駄だ。金がなきゃお前が魚の餌だ。」

電話を投げ出し、樹は膝を抱えた。現実と悪夢が混じり合い、頭が割れそうになる。倉庫での幻覚、同僚の失踪、赤黒い塊――すべてが腐り始めている。

「何だ……何が起きてるんだ……?」

波の音が遠くから聞こえ、部屋に漂うカビ臭さが腐臭と混じる。目を閉じても、闇の中で赤黒い影が動き続けていた。