1.羆

まるでそれは悲鳴のような風だった。
高くそびえ立つ厳寒の山嶺から吹き下ろされ叩きつける雪は剃刀のように鋭く、冷たさで頬が切り裂かれるような痛みを感じた。
林の中に身を潜めていた男が猟銃を構えて白い闇を凝視している。その先には灰色の影がうごめいていた。

「今度は外さねぇ!」
影がゆっくり近付いてくる。引き金に宛てがわれた指に力が入る。
「ん?」
その姿が見えた途端、引き金から指が離れた。それは一人の少女だった。
「お前こんな雪山で何している?」
男は低い声をかけ少女に問う。
「…迷った…寒い…」
少女は肩をすぼめて寒さに震えている。どれほど迷っていたのか髪の毛先には氷柱が形成され垂れ下がっていた。
「まだ童子か…おい!ついてこい!」
「…うん」
男は拠点にしていた山小屋に少女を案内する。

「お前、雪女か?こんな吹雪の中でそんな服装で歩いてるなんて尋常じゃねぇ!」
男は囲炉裏に火を入れる。火に照らされた男の顔はすっかり雪焼けしており、浅黒い肌に深いシワが刻まれていた。
「…ユキオンナ?」
少女は何のことかわからないといった感じで抑揚のない声で聞き返す。男は眉をしかめた。
「まぁいい。名前は?」
「…シュクレン」
「変わった名前だな?俺は能見武三(のみたけぞう)だ」
武三は鋭い眼光を向ける。その頬には爪でえぐられたような傷跡が痛々しく残っていた。

「…ここで何してるの?」
「それはこっちが聞きたいんだがな。俺はマタギをしているんだ。麓の集落を襲った羆を始末するためにここにいるんだ」
「…ヒグマ?」
シュクレンの肌が火に照らされ、その姿が鮮明になった。
武三はその姿に一瞬息を飲んだ。肌は雪のように白く、瞳は蒼く輝きその中で囲炉裏の火の光が揺らいでいた。濡れた銀髪の先から水が滴り落ちていた。
その姿はまさに雪女であった。

「ああ、既に4人が犠牲になった。討伐隊も30人は出たがこの吹雪の中じゃ銃もロクに撃てやしねぇ…もっともにして銃も持った事がない連中だがな」
武三は茶を差し出すとシュクレンは頭を下げる。茶碗からは湯気があがっていた。

「明日晴れたら集落に戻る。お前をこんな所に置いておけないからな!」
外は強い風が吹き荒れ、小屋の軒をガタガタと揺らしていた。何処からか風が漏れるのか囲炉裏の火が強く揺らいでいた。
「武三は…一人?」
「ああ、俺はずっと独りだ。どうも人間は苦手でな。若い頃に気まぐれで結婚なんてものもしてみたが、家にいるよりも山にいる方が長い。気が付いたら女房は離れていった…息子が一人いるが…そうだな、お前さんと同じ歳くらいだ。お前、歳は幾つだ?」
「え…と…」
シュクレンは少し考える。
「…十五」
武三は何も言わずに頷いた。そして囲炉裏に薪を焚べると茶を啜る。
しばらく沈黙が続いた。薪がパチパチと弾ける音だけが小屋の中に響く。

「どうしてこの山に入ってきた?いや、今までどうやって生きてここまで来たんだ?」
武三はゆらゆらと揺れる火を見つめながら質問をする。
「…わからないの。何も。気付いたらここにいた」
「この寒さだ。まだ意識がはっきりしてないかもしれんな。今夜はゆっくり休むといい。明日は麓の集落に送ってやる。すぐに町の診療所に連れて行ってもらえるよう話をしてやろう」
「…ありがとう」
ごうごうと風の音が戸をガタガタと揺らしていた。