【ノスタルジック】リハビリのため夜の女川へ

昨年の今頃は超サイヤ人目指して体鍛えていたんだよな…。

体を鍛えるきっかけは肥満による脂肪肝が深刻で体調を崩したことだ。遡ること4年前…。

『今のまま進行した場合5年生きるかどうかわかりませんよ?』とお医者さんに宣告された。怖いのは脂肪肝からの肝硬変だ。

おいおい、酒を呑んでないのに…ましてやラーメン評論家よりも全然ラーメンも食べてないのにどうして肝臓に脂肪が付くのん?しかも貧乏でご飯も腹一杯食べるのも稀なのに…。

私は絶望した。あと5年の命なの?死ぬの?でも絶対に死ぬわけじゃない。確定した未来ではない。

私は幼少の頃、あまり体が丈夫ではなかった。というのも授乳期に両親が不仲であり母乳を満足に飲ませられなかったらしい。そのせいか体は弱く、一年中風邪をひいては小児喘息(大人になってから判明)で運動もままならなかった。

視力が弱かったのもそういう原因があったのかもしれない。視力に関しては20歳になるまで自分の目が悪いことはわからなかった。つまり、自分の見えている世界が普通だと思っていたのだ。

20歳で自動車免許を取得するために眼鏡を購入し見た世界は初めてのものだった。ありとあらゆるものが鮮明に見えるのだ。あまりの美しさに頭が痺れたのを覚えている。

本来ならば親が気付くべきことだったのだが、親父は私のことに興味を持たず家には殆どいなかったし、母は物心ついた頃には離婚していなかった。

私は人を愛することもわからないし、愛され方もわからないのだ。結局孤独な人生を歩んではいるが最もそれがストレスを感じることなく気楽に生きていけるものとなった。一抹の寂しさを感じることはある。

だが普通に生きてみたいとも思うし羨ましくも思う。

友人と絡むのも少し苦手だ。ん?友人っているかな…。誰かといるとそれがストレスに感じてしまう。集団になると尚更。自分だけが浮いてしまって周りとの温度差を敏感に感じてしまう。所謂HSPってやつだが自分の特性を知ることができて安心感を得ている。

孤独時間を利用して創作に励んだり、筋トレにハマりこんでそれなりに充実した日々を送っていた。肝臓の数値も落ち着き何となく人生が面白く感じていた。

その矢先に起きたのが今年5月のプリウスミサイルを受けての事故だ。

私は何にも違反してないのにいきなり突っ込まれて車は大破、私は重傷を負った…。

全てが最悪の環境だった…。かかった病院がヤブ医者でまともな治療もしてもらえない。何故か私が3割過失を課せられた。加害者がドラレコが無かったことをいいことに過失を認めなかったからだ。長引くのが嫌でその過失割合を飲んだが当初は5:5と言われ絶句したのだ。

だが今にして思えばそれは保険屋のやり口なんだろうな。有り得ない過失割合を提示してひと揉めしたあとである程度譲歩した過失割合を提示することで合意を得るのだ。

事故から数ヶ月は地獄の日々。痛み止め飲んでも痛くて寝れない。

ようやく最近になって歩けるようになってウォーキングを始めたのだ。

でもなんかスッキリしない日々が続いていた。鬱憤が溜まるというのかな…まともに動かない体に苛立ちを覚え、ちょっと遠くに行ってみるかと向かったのは女川だ。

既に日は落ちかけていた。人の姿はもうない。

商店街は間接照明などが点いて優しい雰囲気だ。なんか心落ち着くなぁ。どこからか音楽も聴こえる。

昔の女川からは想像つかないよね。昔の女川は本当に漁師町で狭い範囲に家が密集してて生活感溢れる町だったよ。

女川は確実に新しい町に生まれ変わったのだ。でも変わらないものがあるんだよな。

なんだろう…新しいのに懐かしいんだよね。

女川に初めて来たのは22歳の頃かな。当時付き合っていた彼女と来て海鮮丼を食べた思い出がある。あの時食べたのはいくらとウニの二色丼だ。

マリンパル女川の展望デッキに登って夕焼けに染まる女川の町を見下ろしたっけ…。

彼女はその年に交通事故で急逝してしまった…。あれ以来私にとって女川は思い出の町の一つになった。

あの時の彼女とまた会えそうな気がしてね。

あれから歳を取って、この町を一緒に歩きたかったな。手を繋いだりしてね。

決して癒されぬ喪失感を抱えたまま今日まで生きてみた。

およそ希望なんて持てないと思っていたけど、こうして女川に足を運び過去に出逢えた人に再び逢いに来れるのだ。

今は歩こう。ひたすら。

思い出だけで生きていく。

落ち込んでるだけの日々だって明日はやってくる。毎日楽しくはなくとも過去に思いを馳せるのも人生じゃないか。

私は今日も生きてみた。明日もきっとそう。これからも。

この日の歩数は12000歩を超えた。