【エッセイ】私は洗車が嫌いだ!

私は車が好きだし、趣味はドライブだ。

と言っていた時期があった。それもかなり大昔の話で一生涯スポーツカーにしか乗らねぇぜ!と若気の至りでフェアレディZに乗っていた。

今にして思えばあの頃が全盛期でそれ以後は咲いた花が萎むように情熱も枯れていった。いきがって染めていた髪も今は昭和枯れすすきだ。

どんな人間も年を取る。

年を取り腰痛と眼精疲労を抱えるようになると『走って曲がって止まれば良い』と思うようになりエアコンすら満足に使えない軽自動車に乗るようになった。

「軽自動車に乗ったら男は終わり」と豪語していた若い頃の自分を思いっきり平手打ちしてやりたい。
維持費の安さから毎月回転寿司が食えるようになったし、ガソリンの値段も気にしなくなった。少なくとも軽自動車に乗り換えたことで生活にゆとりが生まれたのだ。

あの頃から軽自動車に乗っておれば家の一軒くらいは建ったかもしれないという後悔の念にさいなまれていた。

軽自動車はさほど神経質に乗るものではなくまさに下駄だった。

そこで生来ズボラな性格が本性を現し洗車をしなくなった。全て天然シャワーで済ませるようになっていたのだ。尚且つ汚れが目立たないシルバー色はお気に入りだった。

だが洗車が嫌いなのはズボラな性格だけではない。私のライフスタイルにもある。

職人の世界は昭和の時代のまま取り残されている。基本的に日曜日しかお休みがない。その日曜日でさえも現場によっては消失してしまうのだ。
三連休などと別次元の話だ。遠い異国の噂話か都市伝説のようなものだ。

つまり、1日しかない貴重な休みを洗車ごときに使いたくないというのが本音である。では門型洗車機に突っ込めばいいのではないか?と思われるかもしれないが日曜日ともなると行列ができている。そこに並ぶのも面倒くさいのだ。

面倒くさいと言えば私の性格も相当に面倒くさい。
汚部屋に住み続けているが片付けが苦手なのではなく片付け始めると徹底的にやりこんでしまい1日を不意にしてしまうのだ。そして、片付けた綺麗な部屋を維持すべく部屋で生活をしなくなる本末転倒ぶり。
洗車もまた一旦綺麗にしてしまうと少しでも綺麗な状態を維持したいと考え走るのを躊躇ってしまう。

結局行き着くところは洗わない、掃除しないことに尽きる。部屋は汚れているようで寝ながら何にでも手が届き必要最小限度の動きで物を入手できる。
車は走れば汚れるのだ。走らない生活をすれば自ずと燃料と時間の節約になり、その分生活に割り当てれば良い。

そう思いながら気が付けば日曜日は終わっているものでこたつでテレビを観ながら過ごした怠惰な1日は帰ってはこないのである。
笑点で木久扇師匠が駄洒落を飛ばしアハハと笑っているまさにその時に思い出して奇声をあげたくなるような衝動に駆られるのだ。

そんな私が重い腰を上げ洗車をしたのだ。車の汚れと共に私の汚れた心までもが洗い流される。光るボディに反射する空が眩しく爽快な気持ちになった。
そんな気持ち良さを維持するために駐車場に車を停めて動かさないことにした。

綺麗なままの車を眺めるのが日課になっていた。
そんなある日のこと、輝いてるはずのボディに白い乳液状のものが垂れている。なんだこれは?

紛れもなく鳥の糞だ。
鳥が私の車目掛けて脱糞しているのだ。上を見るとちょうど良い塩梅の電線が通っており、まさにあの位置から一直線に落としているのだ。綺麗な車に落とすのはさぞかし気持ち良かろうが私の心は穏やかではなかった。

まさに憤慨しているのだ。
なんとかして私の車に脱糞する鳥をギャフン!と言わせたいという気持ちになっていた。
そして同時にまた洗車をしなければならないという事実に落胆しつつも洗車道具一式揃え、電線の上で生き生きとした鳥の姿を見たら怒りも消え失せていた。

糞を洗い流したボディには再び青い空が映っていた。