幼少の頃、母と暮らした貸家は小さな平屋の木造建築だった。
台風となれば天井から水が染み出すボロ屋だったが決して裕福ではないので雨風が凌げるだけでも十分だった。
その日も雨が降っていたと記憶している。パタンパタンとトタン屋根を雨が叩く音が聞こえていた。
その音に紛れて低い男の声が外から聞こえた気がした。
「…てくれ」
確かに聞こえる。それは酷く弱ったような掠れて細い声だった。
黒いすりガラスの玄関の扉からは何も見えない。人の姿は確認できない。
恐る恐る近寄るとその声は徐々に鮮明になっていく。
「開けてくれ」
なんとなく聞き覚えのある声だ。扉を開けようと鍵に手をかけた瞬間に背後から母に制止された。
「何してるの!?」
その表情は鬼のように恐ろしい顔をしている。それは怒りと言うよりも恐怖に歪んだような顔だ。
「開けてくれってゆってるよ」
そういうと母は眉間にシワを寄せる。私と玄関を交互に見ている。
「開けちゃ駄目!」
「でも…」
私が迷っていると突然風が吹いたように扉がガタガタと揺れだす。
「開けてくれ!」
男の声はさっきよりも大きい。
「開けちゃ駄目!」
母の声も強く大きくなる。
「開けてくれ!!」
「駄目!!」
扉はおろか家全体までがガタガタと震え出した。まるで地震のように家が軋む。
男は扉を無理矢理開けようとしているのか。私は恐ろしくて耳を塞ぎ身を丸くしていた。
どれほど続いたろうか。風の音も雨の音も止み、部屋の中は壁掛け時計の針の音だけが鳴っていた。
母は何事もなかったかのように
「早く寝なさい 」と言った。
あとから聞いた話は親戚のおじさんが焼身自殺をしたらしい。
そうだ、あの声は親戚のおじさんの声だったのだ。
おじさんは亡くなった後に何を言いに家に訪れたのかはわからない。そしてあの日に聞いた声は私にしか聞こえていなかったらしく、母は「台風の夜に遊びに出ようとしていた」と言っていた。
あの夜、扉を開けたら何が起きていたのだろうか?